イド・エージェンシーの派遣読本 〜モンテリナ姉妹編〜  その4

Chapter.4 絆

 独立した島国で王族や貴族達が統治する、300年以上の歴史を持つライオネル王国。
 保守的な格式を重んじる貴族主義社会が続く中、王宮や貴族達の広大な屋敷を維持管理し、または彼らの権威を彩るステータスとして、有能で華やかなメイド達は欠かせない存在となっていた。
 そんな中、高度な知識や作法、そして何より極めて厳格な信用が求められる雇用事情から、メイドの技能育成と身元を保証する仲介派遣業者「エージェンシー」が登場。顧客の要望に対して高いレベルで応じるだけでなく、立場の弱かった労働者の権利も保障されるこのシステムは、瞬く間にメイド雇用の主流となる。
 更に、エージェンシーが仲介する相手を上流階級だけでなく、一般層へも範囲を伸ばし、客層に合わせたフレキシブルな契約形態を用意し始めた事でその需要は一気に広がり、職業としての人気が急上昇していくのに併せて需要、供給共に急速な市場の拡大を見せていく事となった。
 やがて、貴族主義の歴史と共に培われた能力水準が他国と比べて遥かに高い事に目を付けた王国政府は、国王自らの号令でメイド派遣事業を支援すると発表。労働法に資格検定制度の確立、そして事業者への補助金給付や組織管理など急速に土壌整備が進められ、将来的は国外への派遣も
見据えた、王国の主要産業へと昇華すべく推進されていく事となる。

 ……そして今、二年に一度開催される王国最高のメイドを決定する祭典がここ、王宮中庭に用意された特設会場で繰り広げられていた。

「ああもうトレハっ、グスグスしてんじゃないわよっ!」
 会場に別枠で設置された、参加エージェンシー用のコーチャーズボックスの中から、本人に聞こえないのは分かっていながらも、オペラグラスを片手に大声を張り上げるわたし。
 最初の筆記試験が終わった後の実技審査で、料理グループに組み込まれたトレハが早速苦戦していたのである。
「あらあらメイフェルさん、淑女が公衆の面前で大声など、はしたないですわよ?」
「うっさいわね。コンテストの実技審査はお上品になんてやってらんないのよっっ!」
 そこで、何故かわたしの隣に陣取っているラトゥーレから向けられた嫌味ったらしいツッコミに、視線を会場へ向けたまま、ぶっぎらぼうにやり返す。
 実技審査は料理、洗濯、掃除の三部構成になっており、円滑に進行させる為に最初に行われた筆記試験の後で、参加者を3つのグループに分けて
同時進行させている。
 その際、実技で使用する道具や材料はグループで共通になっており、例えば今行われている料理審査では、調理場や料理道具、食材は必要な分だけ「分け合って」使用する事になっていた。
(まずいわね、ちょっと出遅れ気味になってる……)
 これにより、自然な流れとして実技審査は一種のバトル状態となってしまいがちである。
 時間が厳しい上に、衆目の中での勝負なので他者の妨害をしている暇は無いし、道具や材料は充分に用意されているとはいえ、料理スタイルや使う量は人それぞれ。ぼさっとしていたら自分が欲しい道具や食材が確保出来なくなる可能性もあった。
 となれば、意思は強くても自己犠牲の精神が強くて、人を押しのける事が出来ないトレハには、ちょっと性格的に不利かもしれないという予感はあったんだけど……。
「……案の定、か」
 とりあえず、手に提げた大きな籠の中に食材は調達しているものの、調理用具の方が確保出来ていないみたいで、他の出場者が奪い合うのをオロオロと伺いながら右往左往していた。
 ……ついでに言えば、キッチンのスペースを確保しておくのも忘れているみたいだし。
(しまったなぁ……朝市の競りにでも参加させて慣らせておくべきだったかな?)
 勿論、わたしも前回出場者として一次審査がどういう形で、またどの様な雰囲気の中で行われるのかをきちんと説明して、対応策のアドバイスや練習もしてはいたものの、やはり温厚な性格と場慣れの少なさが響いて、いざ“戦場”に立つと上手く立ち回れていないみたいである。
「お〜っほっほっ、トレハさんは御苦労なさっているみたいですわねぇ。それに比べて……ふふふ」
「……ちっ」
 そしてその一方で、ラトゥーレが上機嫌に笑う通り、トレハの近くで同じく用意を進めているスクラなんて、実に手慣れたものである。
 涼しい顔をして邪魔な他の参加者を押しのけたり、その眼力で相手を怯ませて道具やスペースを確保しており、こちらは至って順調。
 ……やはり、これまで誰も助けてくれない過酷な環境の中をくぐり抜けてきた彼女が纏う独特の凄みで、競争相手に対して近寄りがたい雰囲気を醸し出しているのが、何よりの強みだろう。
(やっぱり、メイドは舐められたら商売あがったりというコトなのよね……)
 ただ、トレハの場合はその優しさを大事にしてやりたいのも、またわたしの本音ではあるんだけど。
「ふふふ、どうやら勝負は見えたみたいですわね?」
「……気が早すぎるのよ、あんたは。まだ始まったばかりじゃない」
 ともあれ、そんな状況を見てニヤリと口元を歪めながら勝ち誇るラトゥーレに、わたしは素っ気なく吐き捨てるものの、確かにちょっとヤバめではある。
 もう既に開始から十分は経過しており、そろそろ調理に取りかからないと間に合わなくなってしまう可能性があるものの、トレハは未だに食材を入れた籠と、ようやく手に入れたフライパンや鍋を抱えて、キョロキョロと辺りを見回していた。
「……ああもう、いいから強引に割り込んじゃいなさいっての……ん?」
 しかし、見ているこちらのイライラが最高潮に達しようとしていたそんな時、少し離れた場所で調理していたスクラが突然トレハの方へ近付いて行ったかと思うと、袖を掴んで強引に引っ張り込もうとする姿が目に映る。
「スクラ……?」
 すると、トレハは何度もお辞儀をしながら駆け足でそれに従い、やがて二人揃ってスクラが確保した広めの調理場の片隅で食材を取り出していった。
(……なるほど。スクラの弱みって奴ね)
 いくらこの大会ではライバル関係になるとしても、困り果てている妹を見殺しにするなんて、とても出来ないらしい。
 ……どうやら、彼女と同じグループになったのが、トレハにとっては思わぬ幸運となりそうだった。
「きぃぃぃぃぃぃっ、一体どういうつもりですのスクラは?!いくら実の妹相手だからって、真剣勝負で情をかけるとは……!」
「……淑女が公衆の面前ではしたないわよ、ラトゥーレ」
 すると予想通り、そんなスクラの姿にハンカチを噛みしめながら怒りを露わにするお嬢様へ、わたしは冷たくツッコミ返してやった。

 そして……。

「ご苦労様、どうだった?」
「……ふえ〜っ、目が回るほど忙しかったですぅ〜〜っ」
 やがて、一次審査が全て終わった後に出場者用の出口で待っていると、フラフラとした足取りで出てきたトレハが、もう限界とばかりにわたしの胸へ
身体を預けてくる。
「まぁ、実技試験は休みなしだもんね。よく頑張ったわ」
 わたしはそんな彼女の身体を受け止めると、頭を撫でながら労ってやった。
 途中、危なっかしい場面はいくつかあったものの、その都度スクラに助けられたりしながらも無事に全ての課題を消化してくれたし。
「ありがとうございます……精一杯頑張っちゃいました」
 ちなみに、一次で行われる各審査の持ち時間は一時間ずつで、それぞれの会場までの移動時間は僅かに十分しかない。つまり、三時間(筆記も含めると四時間)にわたって、ほぼ休憩なしで矢継ぎ早に進行していくのだから、普段と比べても相当な重労働になるはずだった。
 ……そんな訳で、この実技審査は「メイド版トライアスロン」なんて揶揄されていたりもして。
「でも、これでわたしが最初に体力作りを課した理由が分かったでしょ?」
「ええ……。それと、他の出場者さん達の目つきが違うというか、みんな殺気立っていたので、精神的にもつらかったです……」
 そしてそう訴えると、人目もはばからず癒しを求めてわたしに甘えてくるトレハ。
 ルマージュ様のお屋敷から戻ってきてからは、何やらメイシアの甘えんぼうが乗り移ったかのようにベタベタしてくる様にもなったけど、まぁそれだけ心身ともに堪える審査なのは間違いなかった。
「そりゃ、コンテストの出場者はエージェンシーの看板を背負っている人達ばかりだしね。……でも、お陰でスクラに助けてもらっていたじゃない?」
 もっとも、そのスクラ本人は、少し離れた場所でラトゥーレにガミガミと怒られているみたいだけど。
「あはは……もっとしっかりしなさいって怒られちゃいました」
「一番のライバルに叱咤されていたんじゃ、世話は無いわね。他に何か言われた?」
「えっと、後は悔いの残らない様に、自分の持てる全てを出し切りなさいって……」
「……そう。いい姉さんを持って良かったわね、トレハ?」
 今回はスクラに感謝というか、何だかちょっとだけトレハの事が羨ましくなってしまうわたしだった。
「あはは……何だか痛い皮肉にも聞こえますけど、私もそう思います♪」
 そして、そんなわたしの言葉に、トレハは苦笑い混じりで肯定すると、未だに続く主人からの小言に肩を竦めている姉の方へ向けて、何度も大きく手を振った。

                    *

「マスター、マスター!」
 やがて、一次審査から三日が過ぎた朝、何となく落ち着かない気分を紛らわせようと、書斎で新聞を眺めながらコーヒーを飲んでいたわたしのもとに、
トレハがノックも無しで飛び込んでくる。
「もう、落ち着きなさい……どうしたの?」
「こ、こここ、これ……っ?!」
 そして、その勢いに思わずカップの中身をこぼしそうになったわたしの注意を無視したトレハが、震える手で差し出してきたのは二通の封書だった。
 どちらも、白地にライオネル王国の紋章入り。
「……なるほど、来たみたいね」
 どうして二通なのかは分からないけれど、今日この日に王室から届く手紙で思い当たる内容は一つしかない。
「は、はい……っ!」
 わたしは早速、トレハから受け取った分厚い方をペーパーナイフで開封すると、中の手紙を手早く確認していった。
「…………」
「…………」
「…………っ」
「……合格したわよ、トレハ。良くやってくれたわね」
 それから、わたしは少しの間を置いた後で、祈る様に両手を胸元で組みつつ、緊張の面持ちでこちらを伺っていたトレハへ、笑みを浮かべて結果を
告げる。
 手紙の内容は、予想通り一次審査の合格を告げる旨の内容と採点の内訳、そして二次審査の日程が記されていた。
 ……ちなみに、料理部門の採点が極めて高い辺り、タレットさんの意地が伺えていると言えよう。
「ほ、本当ですか?!」
「本当も何も、元々合格者のもとにしか届かないんだから、当たり前でしょ?」
 そこで目を見開いてくるトレハに、わたしはニヤリと口元を歪めてそう告げる。
「う……っ、マスターも意地悪です……さっきの間合い、私にはすっごく長く感じましたよぉ」
「慌てるあまりに不作法を働いたお仕置きよ。むしろ本番はこれからなんだから、心得なさい」
「はぁい……」
 というか、そうでないと二次審査が困るのである。……だから、本当は抱きしめたりしてもっと褒めてやりたい所だけど、ここはぐっと堪えて引き締めておくわたし。
「でもまぁ、これでルマージュ様のノルマはクリア出来たわね。白百合卿の虜にならずに済んだわ」
 ……ちなみに、これはローゼス家のメイドの間で通っているあだ名だけど。
「あはは……確かに良かったです。実は、失敗した時は伯爵自らが二人まとめてたっぷりとお仕置きしてあげると、私に仰っていましたし」
「……ともあれ、ここまではわたしも辿り着いた道。そして、これより先に目指すは未踏の領域ね」
「はい……っ!」
 しかし、そこで安堵を感じる間もなく、すぐに真顔へ戻してそう告げるわたしに、頷きながらもごくりと喉を鳴らすトレハ。
「それで、二次審査とはどんな課題が出題されるんですか?」
「ロールプレイよ。当日にクジを引いてシチュエーションが与えられ、それに基づいて審査員の前で自分の役割を演じる事になるわ」
 つまり、一時審査で基礎技能を測って振るいにかけ、残った優秀者に対して今度は実務能力を試すという流れなんだけど、これがかなりの曲者だった。
「つまり、どんな役割を演じる事になるかは、当日にクジを引くまで内緒って事ですか?」
「勿論、それはそうだけど……でも大まかな分類で言えばハウスキーパーを務めるか、審査員の一人の従者となるかのどちらかね」
 何故なら、メイドのお仕事としては、この二つが最高位と呼べる双璧だから。
 どちらも基本的にAランク以上の者しか受けられない敷居の高いポジションで、その難易度も求められるスキルも、そして報酬のレートも他の仕事より
桁外れに高い。
 逆に言えば、これらの仕事をこなせてこそ超一流のメイドと言えるし、コンテストの優勝者を決める課題としても、これ以上相応しいものは無いだろう。
「しかもこれが、思わぬハプニングだらけでね。普通にやっていたら無事に終わる事は無いわ」
「ハウスキーパーと言うと、ベルメールさんのお仕事ですよね?」
「そうよ。二次審査の場合、晩餐会とか何か臨時のイベントを催すというシチュエーションで、裏方で働くメイド達へ的確に指示して、無事に進行したり準備を終えられる様に采配するの」
 この仕事をこなすには、当然メイドとしての経験もさる事ながら、冷静さと機転、そして何より人心掌握術を必要とされるので、経験の少ないトレハには不利である。
 ……しかも、指示を出す相手は普段王宮に仕えている、いわゆる頂点に近い人達だからプレッシャーも半端なくて、かくいうわたしもそれに飲まれて
撃沈してしまったし。
「そして従者の場合も、シチュエーションと目的が与えられ、選ばれた主人の側に仕えてどれだけ円滑に、かつ満足度を得られるかの勝負になるわ」
 つまり、仕事内容は執事(バトラー)と混同されがちだけど、従者の場合はあくまで専属として、家政よりも主人のお世話に専念するのが違いである。
 ちなみに、基本的に一人の相手に仕えるお仕事なので、こちらの方がやり易そうに見えるものの、話し相手やら来客時の接客、更に主人の意向を伝達する為に、運営担当のハウスキーパーと交渉したりと、他の仕事に比べてハイレベルな社交性や教養、そして礼儀作法が問われる、これまた非常に厳しい仕事だった。
 ……また、常に主人の視線を意識していなければならない為に、ストレスも溜まりやすいし。
「そういえば、ルマージュ様のお屋敷では、どんなお仕事を任されていたの?」
「最初の一週間は雑用関連で、後半はルマージュ様に専属でお仕えしていましたけど」
「へぇ、従者もやらせてもらってたんだ。それで推薦状を貰えたなら、こっちの方が有利かな?」
「……ただ、言葉使いも気遣いも動作も鈍いけど、やる気だけを買って置いてやっていると、口癖の様に言われてましたけど……」
「ああ、そっか……」
 そうだった。ルマージュ様は他の貴族と比べて、評価基準が少し違っていたんだっけ。
 あの方は見た目の割に意外と熱血派で、一途とか健気さとか、そんな言葉に弱い所もあって、伯爵家に仕えるメイドとしての一定水準は当然求めるとしても、一生懸命に頑張っていると認めた相手は決して見捨てないという傾向がある。
 まぁ、そうなればそうなったで、今度は泣こうが喚こうが自分が満足出来るまでやらせるという鬼のしごきが待っているものの、問題はそんなタイプの
貴族なんてごく稀だし、失敗が許されない意識が疎かになっていないかという心配も芽生えてきそうだけど……。
「大丈夫、ですかね……?」
「コンテストの前日に、『弱気は最大の敵』って言ったでしょ?少なくとも、ここまで漕ぎ着けられたんだから、トレハは立派な有資格者。胸を張って二次審査に挑みなさい」
「は、はい……っ!」
(まぁ、今更考えても仕方が無いわよね?)
 ここはトレハに推薦状を書いて頂いた、ルマージュ様の慧眼を信じるしかない。
「……それであの、もう一通のお手紙は何でしょうか?」
「え?ああ、そう言えば……」
 それから話も一段落した後で、トレハに指摘されて忘れかけていたもう一通の方を改めて手に取ってみると、こちらはルフィーナからの手紙だった。
「なるほど、お姫様からか。合格通知と一緒に届いたのを見ると、一次審査の結果を見て送ってきたみたいね」
 今回は審査員の一人になっているので、影ながら相当助けてくれているハズだけど。
「どんな内容なんですか?」
「別に。お祝いの言葉と、いつもと変わらずのデートのお誘いよ。……あれ?でも……」
 しかし、最後まで読み進めていくうちに、その待ち合わせ場所の指定が、普段とは異なっていることに気付くわたし。
「でも?」
「……明日、うちへ遊びに来たいんだって」
 そう言って、わたしはきょとんとした顔を見せるトレハへ肩を竦めて見せた。

                    *

「さぁ、どうぞ。お姫様……」
「ええ、お邪魔します」
 そして、バタバタとしながら迎えた次の日、約束通りに訪ねて来たルフィーナを出迎えると、早速彼女が希望していたわたしの私室へと案内した。
「……しかし、いきなり遊びに来たいなんて言い出すから、びっくりしたよ。お陰で昨日は予定を変更して、大掃除の日に早変わりしたし」
 というか、他の場所なら普段からメイシアが綺麗にしてくれているから焦る必要は無いんだけど、わたしの部屋だけは自分でやるから手を付けなくても
いいと命じていたのが仇になってしまった。
 物自体はそんなに多くないので片付けは楽としても、当分の間お手入れをしていなかったので、改めて気付けば、部屋がちょっとかび臭くなっていたのが軽くショックだったりして。
「あら、エージェンシーのマスターともあろう者のお部屋が、慌ててお掃除をしなければ客を迎えられないというのは、一体どうなのかしらね?」
「それを言われると、耳が痛いんだけどね……ちょっと最近、コンテストの事で頭が一杯だったし」
 えっと、確か諺で「染屋の白袴」って言うんだっけ?
「ふふ、冗談よ?大事な時期に無理を言った私が悪いんだから。……でも、メイフェルの部屋に入ったのも本当に久し振りね。あの時以来かしら?」
 そう言って、ルフィーナは感慨深そうに部屋の中を見渡していく。
「……うん。二人だけで送別会をやった夜以来かな?あれからもう、随分と経っちゃったけど」
 あの頃はまだお互いに十六歳で、わたしはまだメイド見習いの身だった。
「でも、このお部屋の風景だけは、殆ど当時の記憶のままね。あの壁の油絵もそのままだし」
「まぁ、家具を新調したり、調度品とか揃えていく余裕も無かったしね。今じゃ、殺風景だからとお母さんが描いてくれた、あの油絵も形見になっちゃった」
 正直、あの頃は別に気に入っていたわけでもないけど、まぁすぐに外してしまうのも可哀相だからいいかと放置していたものの、今じゃ絶対に手放せない宝物の一つである。
「そういえば、メイフェルのお母様も昔はメイドだったわよね。……しかも、私のお母様のお世話をさせて頂いた事があるからと挨拶された時は驚いちゃったけど」
「……まぁお陰で、しつけが厳しくてこの家に生まれた事を恨んだ時期もあったけど、今じゃ感謝すべきかな?」
 実はこちらがエスプリシア家の直系になるうちの母は、わたしが物心ついた時には既に引退して、父と共にエトレッド・エージェンシーを盛り立てていた
ものの、その前までは王宮にお仕えしていた程の優秀なメイドだったらしい。
 エージェンシーでの母の主な役割は登録メイド達の育成で、指導とは経験に裏付けされたものでなければ決して伝わらないという強い持論を持っていたけれど、わたしもそれは継承しているつもりである。
 ……ただまぁ、いい経験を積ませたいからって、見習いを卒業したばかりの愛娘をいきなりローゼス家に放り込むのもどうなのかとは思うけど、考えたらわたしもトレハに同じコトをしてるのよね。
(やっぱ、血は争えないってコトかな……)
「本当、不思議な縁よね。誰かに引き合わされた訳じゃないのに、やっぱり、エスプリシア家とは世代を超えて運命が結ばれているのかしら?」
 そこで、今更気付いた親子っぷりに苦笑いしてしまうわたしへ、ベッドへ腰掛けてイミシンな台詞を向けてくるルフィーナ。
「あはは、王族のお姫様にそう言ってもらえたら、確かに光栄だけど」
「……それは、メイフェル・エスプリシアという個人として?それとも、エトレッド・エージェーンシーを背負うマスターとしてかしら?」
「正直言えば、今はどちらも……かな?」
 嘘偽り無く言えば……ね。
「ふふ、正直でよろしい。そんな、王女の前だからって上辺だけを取り繕ったりしない誠実な所も好きよ、メイフェル?」
 すると、「今はもう友情より商売なのね」とでも返されるかと思いきや、ルフィーナは腰掛けたまま嬉しそうに笑いかけてきた。
「……面と向かって誠実だなんて言われると、何だか照れくさいってば。でも、こうやって七年ぶりに遊びに来たのは、久々の昔話に花を咲かせたかったから?」
 勿論、それはそれでわたしも全然構わないんだけど、このタイミングでってのが、何だか少しばかり胸騒ぎを覚えたりもして。
 ……実際、今回のコンテストの告知が出てからのルフィーナは、少しばかり様子が変わってしまったし。
「ええまぁ、理由は色々あるんだけど……とりあえず、誰も邪魔が入らない場所で二人きりになるなら、やっぱりここかなって」
 それから、テーブル横の椅子を引っ張ってきて目の前に座ったわたしへ、ルフィーナは穏やかな笑みを浮かべてそう告げてくる。
「それが、お茶も要らないと断った理由?」
「だって、今日のお話はとても他言出来る内容じゃないしね」
 そしてそう続けると、わたしに意味深なウィンクをして見せるルフィーナ。
「……と、言うと?」
「話すべき事は沢山あるけれど、まずは一次審査通過おめでとう。信じていたとはいえ、やっぱり流石ね」
「いや、トレハが頑張ってくれたんだよ。わたしは単にコーディネートしただけ」
 まぁ、参加者だった前回と立場が変わって、違う苦労をたっぷりと味わったけど、あくまで達成してくれたのはトレハの情熱と技量である。
「それでも、全くの無名だった彼女を見い出してコンテストへ出場させ、しかも一次審査合格にまで導いた手腕が凄いんじゃない。同じく、スクラローズを
抜擢したリースリングのラトゥーレ共々、審査員の間でも話題になっているわ」
「…………」
 というか、あの二人は訳アリのイレギュラーなんだけどね。
 実際、スクラに関して言えば、わたしなんかよりも多くのキャリアを積んでいるはずだし。
「特に、スクラローズの方は初参加で三位通過だしね。トップとの得点差は十点も無かったそうよ」
「三位通過か……。予想はしていたけど、やっぱり厳しいわね」
 ちなみに、トレハの方はタレット師とローゼス家で鍛えられた料理と掃除の評価が高かったものの、残りの二つがやや足を引っ張って、結局はギリギリの十八位。
 ……つまり、その十五位分が彼女との実力差という事になる。
「でも、一次審査の順位が二次審査で直接影響する事は無いし、採点方式も不確定要素が増えてくるから、残った二十人全員に優勝の可能性はあると思うわよ?」
「まぁね……。能力もだけど、争点はどれだけ優勝に相応しいかと思わせるか、だもんね」
 何せ、二次審査の採点は得票方式になっていて、審査員が一位から五位までを投票し、獲得ポイントの一番高い人が優勝という、早い話がどれだけ
支持を集められるかの勝負である。
「だから、彗星の如く現れたモンテリナ姉妹が、今回の台風の目になるんじゃないかと話題になっているのは大きいわよ。……それに、審査員には私も
いるから」
「まぁ、限られた時間での一発勝負だし、曖昧に言えば、人を惹き付ける力のある子がやっぱり有利なのよね……」
 残念ながら、わたしにはそこまでの輝きは無かったみたいだけど、最初に会った時から視線を釘付けにされたあの二人なら……。
「それで、どこまで有利に取りはからえるかは分からないけれど、他の審査員にも声をかけて、私も出来る限りのコトはしているわ。勿論、本人が優勝してもおかしくないだけの演技を見せてくれたら、だけど」
 それから、更にルフィーナは声を潜ませると、真剣そのものな顔でわたしにそう告げてくる。
「……ねぇ、ルフィーナ。どうしてそこまで……」
「その質問に答える前に、今日私がこの場所へ来たかったもう一つの理由を言っておくわね?」
 しかし、そんな真顔からは何だか焦りの感情も見受けられて、純粋な応援の範疇を超えている様な引っかかりを覚えたわたしは、前々から抱いていた疑問をとうとう口に出すと、ルフィーナは返事の代わりにそう告げてくる。
「もう一つの、理由?」
「ええ……。最後に確認しておきたかったの。いつか私の従者になってくれると約束した時の貴女の気持ちが、同情じゃなくて友愛である事を」
「最後にって……。前に会った時も、私が好きかと確かめてきたよね?そりゃもちろん、聞かれてわたしが答える返答は一つだけだけど、でも一体どういうコトなの?」
「……実はね、私はもうすぐお嫁に行く予定になっているの。相手は同盟国であるドランビュイ国のマッキンノン王子よ」
 その後で、「まぁ、ある意味人質みたいなものだけどね?」と肩を竦めながら、自虐に満ちた表情を見せてくるルフィーナ。
「え……?!もうすぐって、いつ?」
「正式な発表があるのはまだ少し先としても、来年の今頃の私は、確実に先方の国で暮らしているでしょうね」
 そして、溜息混じりにそう答えると、ルフィーナは気丈さを捨てた寂しそうな笑みを見せた。
「そ、そうなんだ……」
「それだけ?」
「それだけって……そりゃ、寂しいとは思うけど……」
 だけど、王室の政略結婚にわたしが口出しをしたところで、どうにかなる問題じゃない。
「……それじゃ本音を言うわ、メイフェル。私と一緒に来て欲しいの。貴女が側にいてくれるなら、どんなに故郷から遠く離れた地でも寂しくはないから」
 すると、暫く沈黙の時間を置いた後で、ルフィーナは意を決した様に立ち上がると、胸に手を当てながら自分の想いをわたしに告白してきた。
「一緒に?ドランビュイ国へ?」
「ええ。嫁入りの際に、私のお付きの従者を連れて行く事が出来るの。だから……」
「……つまり、昔の約束を果たすには、今回のコンテストで優勝するしかないというコトね」
 そっか……。 
 以前言いかけた、「いつまでも待てない」とは、そういう意味だったのか。
「基本的に優勝者が私の従者になるんだろうけれど、公式Aランクを持つメイフェルなら、貴女がなっても文句は出ないわ」
「…………」
「この大事な時期に、突然こんな事を言い出してゴメンなさい。……だけど、もう時間が無いの。もしもメイフェルがあの時に交わした、私との約束を大事にしてくれているのなら……」
 そう言って、ルフィーナはわたしの手を取ると、縋る様な目を向けてくる。
「ルフィーナ……」
 ……しかしその時のわたしは、その手を振り解く事も、強く握り返すコトも出来ず、ただ大切な親友の名を呟くしか出来なかった。

                    *

「それじゃメイフェル、考えておいてくれると嬉しいわ」
 やがて瞬く間にやってきた、太陽が沈みかけた夕暮れ時。
 結局、部屋に二人で篭ったまま別れの時間を迎え、ドアの外まで見送りに出たわたしへ、ルフィーナが微笑を浮かべながらそう告げてきた。
「うん……。その前に結果が出ればだけどね?」
「そこはメイフェルの手腕と、女神様のお導きを信じているわ。だって、ここまで辿り着けたんだから」
「……まぁね。それと……ルフィーナ?」
「うん?」
「わたしもルフィーナの事は好きだし、あの時の約束だって、厳しいメイドの修行に耐えてこられた心の支えだったのも確かだよ」
 あれから一年後、母親に放り込まれたルマージュ様のお屋敷で挫けそうになる度に、いつしかわたしはお姫様のメイドになるんだからと、そう自分に
言い聞かせて立ち上がってきたのだから。
 ……確かにあの時のわたしは、約束した後でルフィーナが嬉し涙を見せながら抱きしめてくれた事を、何よりの誇りにしていた。
(だけど……)
 今のわたしの立場は、代々続く家業のエージェンシーを受け継いだマスターであり、ルフィーナとの約束を叶える為に再びメイドに戻るというコトは……。
「…………」
 しかし、おそらくルフィーナにとってのわたしは、唯一無二で……。
「ありがとう。最近は、私がお姫様じゃなかったらって思ってしまう事も多いの。……そうしたら、メイフェルとずっと一緒にいられたかもしれなのに」
「……心はいつも一緒だよ。お互いが忘れてしまわない限りはね」
「そうね……。それじゃ頑張って。健闘を祈っているから」
「うん。コンテストが終わったら、また会おうね?」
「ええ、必ず手紙を送るわ」
「…………」
(何だか、話がどんどん大きくなっていってるわね……)
 やがて、漠然とそんな事を心の中で呟きながら、オレンジ色に照らされた街路を歩いてゆくルフィーナとゴードンさんの後ろ姿を見送るわたし。
 まさか、今回の大会にそんな意味が込められていたなんて……。
「……マスター、お姫様とはどんなお話をされていたんですか?」
 それから、二人の後ろ姿が見えなくなった頃に、後ろから恐る恐る尋ねてくるトレハ。
「ん?気になる?」
「だって、メイシア達がこっそりと聞き耳を立てようとしたら、あのゴードンという人に追い立てられてしまったです……」
 すると今度は、メイシアが顔を出してきたかと思うと、不満そうに頬を膨らませた。
「……まぁ誰もが、それぞれ譲れない願いを胸に戦ってるって事よ」
 しかし、どんなに強く願おうと、その想いを遂げられるのは非情にも二次審査の勝者のみなのである。

                    *

「…………」
 そして、運命を決する時は、気付けばもうすぐ目の前に迫っていた。
「……うう……っ」
「……トレハ、顔色が良くないわよ。大丈夫、わたしのトレハなら、きっと上手くやれるから」
 いよいよ始まった二次審査の午後、朝から続くあまりにも長い待機時間にトレハの気疲れを気にしながら、わたしは隣に座わせている彼女の手を握って、今日何度目か分からない励ましの言葉をかける。
 二次審査中の出場者は、エージェンシーごとに用意された席でコーチやマスターと一緒に待機する事が許されており、こうやって出番待ちで固くなって
いるトレハの気持ちを解すのも、わたしの大切な仕事だった。
「は、はい……大丈夫です……」
「あまり大丈夫には見えないから、言ってるの。……ほら、大きく深呼吸して」
 そう言って、出番が近付くにつれて足まで奮わせてきたトレハの肩を優しく揉んでやるわたし。
 ……ついでに、こっちの方も午前中より随分と強張ってきているみたいである。
「わ、分かってはいるんですけど……」
「まぁ、緊張感も適度には必要だけど、過剰なのは身体に毒よ?ルマージュ様のお墨付きを受けたんだから、伯爵邸にいた時のコトを思い出してやればいいの」
「は、はい……」
 ただ、今日の出場者やその関係者で、緊張していない者なんて皆無としても、特にトレハにとって大きなプレッシャーとなっている要因があった。
(いきなり、ライバルに見せつけられちゃったからね……)
 午前中の七番目にスクラが演じた、晩餐会の裏方を取り仕切るハウスキーパーっぷりがあまりにも見事だったのが、余計な逼迫感を与えているのは
間違い無かった。
 トレハと同じく、正規雇用されていなかったスクラがハウスキーパーみたいな管理職の経験なんて無いハズなのに、まるで長年務めていたかの様な堂々たる姿で、審査員や観客を唸らせていたのだから。
「一次審査の合格通知が来た時にも言ったでしょ?トレハは立派な有資格者なんだから、もっと堂々としていなさいって」
(そりゃ、わたしだって一度は奈落に突き落とされた気分になっちゃったから、気持ちは分かるんだけど……)
 特に圧巻だったのが、二次審査恒例のハプニングが起こり、一斉にスクラへ反抗し始めたメイド達に対して一言の言葉も発すること無く、一睨みで大人しくさせてしまった時である。
 この眼力は睨まれた本人達だけじゃなく、会場中の空気をも一瞬凍りつかせた程の威力で、今後もしばらく語り継がれていくんじゃなかろうかという印象すら与えられていた。
 お陰で、彼女の演技が終わった後の拍手の大きさや、最後に労いの言葉をかけたスクラに、彼女の元で働いたメイド達(しかも、普段は王宮勤務の
エリート中のエリート)が揃って目を潤ませながら敬服していたカリスマ具合を見ると、現時点で本命の一人なのは間違いなく、本日の三番目でそつの無い演技をこなしていたトップ通過者の印象もすっかりとかき消してしまっている。
 勿論、まだ優勝確定と決まったわけじゃないものの、正に天才のメジャーデビューと称するに相応しいインパクトで、最終的な結果に関わらず、この
コンテストが終わった後で引く手数多となるのは間違いなさそうだった。
「でもやっぱり、姉さんと私では格が違いすぎですよね……」
「…………」
 せめて、もっと順番が早ければ良かったのに、トレハの出番は生憎の十七番目。
 朝から夕方までの丸一日かけて行われる二次審査は、トレハの様な下位突破の子には終盤に回ってくる方が審査員の印象に残りやすいという意味では有利なんだけど、ただこんな展開になってしまえば、待っている間の心労で、出番が来る前にヘバってしまいそうである。
「……これが、スクラ姉さんに守られて温々としていた間の差なんですね……」
「悪いけど、そんなのはやる前から分かっていたんだし、同じ土俵に上がってしまえば五分と五分よ。それに、この二次審査はどれだけ強い印象を与えたかが勝負だから、まだチャンスはあるわ」
 ともあれ、現実逃避しても仕方が無いので、自虐的な半笑いを見せるトレハに、わたしは引き続き肩を解しながら励まし続けていく。
「でしたら、姉さんこそが一番強烈な印象を与えているのでは?」
「それでも、残念ながらスクラに満点評価は与えられないわ。技量を競うコンテストで結果論は通じない。審査員の目も節穴じゃないから、その点は見逃していないはずよ」
「……と、言いますと?」
「あの会場を凍らせた睨みは、実は減点対象なのよ。威圧で言う事を聞かせるのは結果的に上手く行ったとしても、ハウスキーパーとしてはいささか問題なの」
 確かに、スクラには有無を言わせない凄みがあるものの、後で冷静になって再評価してみれば、その反面で強引に押し通す傾向が見えていたのは否めない。
 おそらくこれは、彼女が今まで妹を養いながら、過酷な環境で生き抜く為に得た強さだろうけど、あくまで技能勝負のコンテストにおいては、不利な材料になる可能性はあった。
「そ、そうなんですか?」
「ええ、だからベルメールさんが怒鳴り散らしたコトなんて一度もないでしょう?あれは、何があろうが流れを止めてしまわない為だから」
「な、なるほど……」
「だから、まだ諦めるには早いって事よ、分かった?」
 ……とはいえ、あくまで審査員の判断次第なので断言は出来ないものの、ここはトレハの気持ちを楽にさせるコトが最優先である。
「は、はい……!」
 それにもう一つ、スクラには……いや、これはトレハにも言える事だけど、他の出場者と比べてハンディキャップを抱えていた。
 それは、二次の審査員の一人に、あのワイズミュラー家当主、クロムウェル卿がいるということ。
 一応、スクラの方は直接の加害者ではないとしても、モンテリナ姉妹に対しての心象は決して良いとは思えない。
(うちの場合は、ルフィーナの票と相殺だろうけどね……)
 ……ただまぁ、リースリングの方も息の掛かった審査員を確保している可能性はあるから、埒も無い皮算用ではあるんだけど。
「とにかく、スクラに言われたんでしょ?後悔しない様に自分の持てる全てを出し切りなさいって」
「……ええ、分かっています」
「ならば、トレハは自分の与えられる役割をきっちりと最後まで演じきる事だけを考えなさい。結果はまた別の話。ここまで辿り着いただけでも充分凄いんだし、誰も責めたりはしないわ」
 くどいけど、元々コンテストなんてそういうものである。
 ……というより、そんな心構えでないと、確実に押し潰されてしまう。
「…………」
「だって、わたし達はあくまでチャレンジャーの立場なんだから。失うモノなんて考えないで、当たってくだけるしかないの」
「……マスター……」
「お疲れ様でした〜♪続いてはエントリーナンバー18番、エトレッド・エージェンシー所属の、トレハローズ・モンテリナさんです!」
 そんな中、遂に一つ前の出場者の演技が終わり、会場内に拍手が響いたかと思うと、続けて司会進行役のフロールさんから、会場内に良く響く声で
トレハの名を告げられた。
 ちなみに、このフロールさんも普段は王宮でお勤めしている現役のメイドさんで、拡声器無しでもよく通る澄み渡った声に明るい語り口でコンテストの
名物司会者として人気を博しているけれど、実は第十四回大会の優勝者である実績は意外と知られていない。
 ……おまけに、実はベルメールさんとは従姉妹にあたるのだから、この業界も案外狭い……ってのは、今はどうでもいいとして。
「さぁいよいよ出番ね、トレハ。泣いても笑っても今までの集大成、気合入れて行くわよ?」
「は、はい……!」
 遂に来る時を迎え、トレハは心臓に手を当てて高鳴る鼓動を抑えつつ、顔を紅潮させながら立ち上がると、会場内から改めて浴びせられていく拍手に、何度もお辞儀を繰り返していく。
 この辺は、素っ気無い会釈を一度見せたのみだったスクラと、実に対照的というか。
「彼女はリースリング・エージェンシー所属のスクラローズ・モンテリナさんの実妹との事です。所属こそ異なるものの、姉妹揃っての初出場にして一次審査突破を成し遂げた新鋭に期待しましょう♪」
 それから続けて、フロールさんからの軽い紹介を受けた後に、会場内がどよめきや歓声で俄かに騒がしくなってゆく。
(……なるほど、注目度は高いみたいね)
 やらかしてしまった時の印象も強くなってしまうけれど、当然チャンスでもある。
 白か黒か、そのどちらかしか無いうちにとっては好都合だった。
「さて、エントリーナンバー18番のトレハローズさんには、従者としてさる御主人様にお仕えして頂きます」
(おっ、そっちに来たか……)
 やっぱり何だかんだで、トレハにはこちらの方が合っているだろうから、悪くない滑り出しと言えた。
「そして、その御相手となる特別ゲストは……」
「……は、はい……っ」
 しかし、問題はここから。
 その後、もったいぶる様に間を置く司会者から発表される次の台詞を、わたしとトレハはそれぞれ固唾を呑んで見守っていた。
「…………」
 ルフィーナの話では、審査員の他にこちらの特別ゲストの中にも、彼女と親しい人物が参加しているらしい。例えば、彼女の遠縁になるエルヴィラ・グレイン子爵もその一人で、未だにお呼びが無い事を考えれば、選ばれる可能性は高い。
(来い、勝利の女神……っ)
「……ライオネル王国屈指の名門である、ワイズミュラー家の嫡男、ラクゥエル・ワイズミュラー様です!」
「んな……っ?!」
 しかし、挙げられた名前を聞いた途端、ハンマーで後頭部を殴られた様な衝撃が走る。
 ラクゥエル・ワイズミュラーって、トレハを虐待して花瓶で怪我を負わされたという、あの因縁の……。
(く……っ、なんて事……っ!)
 まさか、ここで女神どころか死神の手を引いてしまうなんて……。
 クロムウェル卿が審査員の一人なのだから、その息子のラクゥエルがいたって、確かに不思議じゃない。
 不思議じゃないけど、よりによって……。
「…………っ」
 そして、やはりトレハもショックだったらしく、紅潮していた顔から一気に生気が引いていくのが分かる。
「トレハ……」
「だ、大丈夫です、大丈夫……」
 そこで、咄嗟にかける言葉もロクに思い浮かばず、ただ心配になって視線を向けるわたしへ、無理に笑みを作って見せるトレハ。
「…………」
 まずは落ち着け、わたし。
「それでは十分後に開始しますので、準備の方をよろしくお願い致します♪」
「……ほら、それじゃ先方へ挨拶に行くわよ?」
「は、はい……」
 わたしは麻の様に乱れかけた心を強引に抑え込んで立ち上がると、淡々とそう告げた後で自分の役割を果たすべく、トレハの手を取り、特設会場近くにいるラクゥエルの元へと移動していく。
(まずは、わたしからの戦いね……)
 ぶっちゃけ、冷静になれるか自信は無いけれど、今はただトレハの為に。
「……初めまして、ラクゥエル様。わたしはエトレッド・エージェンシーのマスターを務めております、メイフェル・エスプリシアと申します。この度は、どうぞお手柔らかによろしくお願い致します」
 やがて、彼のすぐ近くまで寄ると、まずはトレハを後ろへ控えさたまま、深々と頭を下げて挨拶を向けるわたし。
 ここで、自分がしなければならない仕事は、個人的な感情を一切殺して滞りなく挨拶を済ませ、どうにか良好な空気を作りつつ、あとは本番でしっかりと動ける様に、少しでもトレハを慣れさせる事。
 互いに腹に一物を持った舞台になりそうだけど、ただ場所が場所だし、彼にもワイズミュラー家の跡取り候補という立場があるのだから、わたしが何も知らないフリをしながら上手く雰囲気を作る事が出来れば、相手も素知らぬ顔で役目を果たしてくれるはず……。
「ふん、ようやく回ってきた出番の相手が誰かと思えば、トレハローズか。こんな形で再会するとはな?」
 ……と思ったのも束の間、ラクゥエルはわたしの挨拶を無視して、露骨に冷たい視線をトレハへ向けたまま、不機嫌さを隠す事なく吐き捨てた。
「あ、あの……」
「主人に歯向かい、怪我まで負わせた挙げ句に逃げ出しておいて、何も知らない顔でコンテスト出場か。スクラを送り出したリースリングといい、揃いも揃って恥知らずな連中だ」
「…………っ!」
(ち、ちょっと待ちなさいよ……っ!あの件は、あんたらの方が勝手に揉み消して無かった事にしたんじゃなかったの?)
 そこで、わたしは即座に言い返してやりたくなったものの……。
「……失礼ですが、トレハは正規の手続きを踏んで登録された新人メイドです。コンテスト出場に際しても、当エージェンシーの責任において人物証明書を発行し、ローゼス伯爵家より推薦状も頂いておりますから、埒も無い御発言は誤解を生むだけかと存じますが」
 しかし、ここは何とか感情を押し殺して、淡々と丁寧にそう告げてやるわたし。
 ……こっちも我慢しているんだから、あんたも頭を冷やして置かれてる立場を思い出しなさいっての。
「くくく、誤解だと?この僕の額に残った傷を見ても、果たしてそう言えるか?」
「そ、それは……うぐ……っ」
(いいから、トレハは黙ってなさい……っ)
 すると、こちらに同調するどころか、更に古傷を抉ろうとしてくるラクゥエルを見て、みるみる表情が崩れかけたトレハの口元をわたしは慌てて押さえると、耳元で厳しく諭す。
「…………っ」
(この男、一体どういうつもりなの……?!)
「……フッ、まぁいいさ。逃げ出したお気に入りと久々に戯れてやるのも、また一興だろう」
 すると、ラクゥエルは対峙する目を険しくさせたわたしには目もくれず、あくまでトレハへ向けて口元を意味深に歪めながらそう告げると、そのまま悠然と舞台の方へ向かって行ってしまった。
「……あくまで、わたしは眼中になんて無いってか」
 もしくは、お呼びじゃないから引っ込んでろという警告なのかもしれないけれど、少なくともトレハへの興味が薄れてくれていればと願っていたのは、甘い願望だったらしい。
「マスター……」
 いずれにしても、状況は最悪以外の何物でもないけれど、嘆いていても始まらない。
「とにかく、トレハはわたしに出逢うまでの過去は一切捨てて、何を言われても素知らぬ顔で最後までやり通しなさい。いいわね?」
「……大丈夫です。別に私自身はあの方を恨んだりしている訳ではありませんし」
 それから、ラクゥエルがセッティングされた舞台へ入るまで見送った後で振り返り、思わず漏れてしまった溜息混じりでそう告げるわたしへ、トレハはいつの間にか受け取っていたシナリオに目を通しながら、静かにそう答えた。
「え……?」
「先程は少し驚いてしまいましたけど、この私はあくまで御主人様に仕えるメイド。そうですよね?」
「…………」
 確かに、メイドとはかくあるべきなのかもしれないけれど……。
(……でも、どうしてそんなコトが平然と言えるのよ、トレハ?)

                    *

「それでは、お待たせ致しました。続いてはエントリーナンバー18番、エトレッド・エージェンシー所属の、トレハローズ・モンテリナさんによるロールプレイです♪」
 やがて、準備が全て整った後でフロールさんが開始を宣言すると、控えめな拍手と共にゆっくりと幕が上がっていく。
(……さて、まずは落ち着いていきなさいよ、トレハ?)
 読み終えたトレハから受け取った後で目を通したシナリオによると、今回の流れとしては、寝坊しているラクゥエルを起こして支度を整えさせ、二十分後に応接室での会談を控えて既に待機している来客との約束を守らせるか、もしも遅れてしまう場合は、両者の関係を悪化させない様に取り計らうのが
目的との事だった。
(まぁ、従者の仕事をしていれば、必ず遭遇するシチュエーションの一つよね……)
 しかも、貴族はワガママな連中が多いから、起こしに行ってもゴネたり、時には怒り出したりする癖に、それで約束に遅れてしまえば、こっちの職務怠慢だとか言い出すしで。
 ちなみにコツとしては、まずは主の性格をしっかりと把握しておくのが大切なのと、起こし方は強引になりすぎても消極的すぎてもダメで、そのバランスと駆け引きが腕の見せ所である。
「……失礼します、旦那様」
 ともあれ、どうしても消えない不安感を抱きながら見守る中、トレハは軽いノックと共にティー・ポッドとカップを載せたトレイを持ってラクゥエルの寝室へと入ると、一旦テーブルの上へ静かに置いた後で、窓際の閉められたカーテンへと向かっていく。
(うん、まずは無難な線からね……)
 当然、状況的には時間が無いので、とっとと起きて貰わないとならないものの、メイシアがわたしにいつもしている様に身体を揺すって起こすのは、貴族相手には不作法の極みである。
 そこで、日光を遮断しているカーテンをまず空けて、自分から目を醒ましてもらうのが一番無難な選択肢なんだけど……。
「…………」
 しかし、トレハが少しずつカーテンを開いて朝日(今回は午後の西日だけど)を室内へ差し込ませるものの、ラクゥエルは日差しから背を向ける様に寝返りをうってしまった。
(まぁ、ここで自然に起きてくれるなら、審査にならないんだろうけどね……)
 トレハのお手並みを拝見するのは、むしろここからであって。
「おはようございます、旦那様。お目覚めの時間です」
「……疲れてるんだ。昨晩寝付くのが遅かったからな。せめてあと十分眠らせてくれ」
 その後、トレハは自分の影で主人を覆ってしまわない様に留意しながら、近くへ寄って耳障りにならない穏やかな声でそう告げると、ラクゥエルはシーツを被って背を向けたまま、素っ気無くそんな言葉を返す。
(あ〜、あるある……)
 そんな彼のありがちなリアクションを見て、思わず声には出さずに苦笑してしまうわたし。
 なんて言うか、駄々っ子みたいなのよね……。
「……分かりました。それでは、もうしばらくお待ちしております」
 すると、トレハは優しい笑みを浮かべながらそう答えたかと思うと、言葉の通りにその場で待機し始めてしまった。
(え、そうきちゃった……?)
 そんな、トレハが見せた思いもよらなかった反応に、わたしは口元を押さえてツッコミが言葉に出るのを防いだものの……。
「…………」
「……無理に、起こさないのか?」
 どうやら、ラクゥエルの方も予想外だったみたいで、それから少しの間を置いた後で、背中越しに尋ねてくる。
「いいえ。旦那様がお疲れだと申されるのでしたら、あと十分程お待ち致します」
「でも、時間は無いんだろ?それに、コーヒーも冷めてしまうぞ?」
(同意したくは無いけど、そーよねぇ……?)
 本来は五分以内に起こして、更に時間が無いのにも構わずのんびりとしたがる主人を宥めながら、十分以内で身支度させてギリギリって配分だろうに。
 ……まさか、着替えた後で移動する時間を忘れている訳じゃないわよね?
「構いません。お急ぎ頂ければ何とかなると思いますし、もしお約束の時間に少々遅れてしまっても、あくまでこの私の不備ですから」
「……そ、そうか……」
「それに、コーヒーならまた新しいのを淹れて参りますので、私の事はどうかお気にならさず、もう少しだけお休みになられて下さい」
(ちょっと待って、トレハ……。確かに心がけは立派だけどさ……)
 でも、そんな自己犠牲が強すぎるやり方じゃ、身を滅ぼすってば。
 ……しかも、さっきの発言はヘタしたら大言壮語とも取られかねないし。
「…………」
「……ちっ……」
 とはいえ、そんなトレハの優しさにかえって寝心地が悪くなったのか、それから程なくして、ラクゥエルは渋々とシーツにくるまれていた身体を自ら起こしてしまった。
(ありゃ、そういう手もあったとはね……)
 わたしだったら、多少強引にシーツを折り畳んじゃう所だけど。
 ……これは、結構面白い評価になるかも。
「よろしいのですか?御気分が優れないのでしたら……」
「……別に、古傷が痛んで睡眠不足になるのはいつもの話さ。いつぞやに花瓶で殴られた額の傷が頭痛を招いてね?」
「…………っ」
 しかし、それから傷痕を押さえながら、ワザとらしく痛がる素振りを見せてそう告げたラクゥエルに、ここまで穏やかにコトを運んでいたトレハの表情が
一瞬凍り付いてしまう。
(そんな……。この場で個人的な恨みを持ち込むのはルール違反でしょ……)
 元々、何かしてくるのは分かっていたけれど、ここぞとばかりに意地の悪い嫌がらせを仕掛けてくるとは。
「あ、あの……私……」
「なんだ?」
(馬鹿っ、そこで謝っちゃダメっ!)
「……いえ、大丈夫ですか?今コーヒーを淹れますので、これで頭をすっきりとなさって下さい」
 そこで、思わず拳を握り締めて叫びそうになったわたしの思いが通じたのか、トレハは一旦唇を噛みしめて間を作った後で、内心の動揺を見せるコトなく、静かに別の言葉を続けた。
「ま、あの時以来でもう慣れっこだしな……。それより、僕が寝起きに飲むのはコーヒーじゃなくて紅茶だと言ってなかったか?」
 しかし、気を取り直してトレハがティーポットに入ったコーヒーをカップへ注ごうとした所で、わざわざ「慣れっこ」と嫌みったらしく繰り返すと、不機嫌そうな顔を見せつけながら、テーブルをひっくり返す様な我侭を続けるラクゥエル。
「も、申し訳ありません。以前はそうでしたから……すぐに取り替えて参ります!」
「……ふん……」
 そして、それを聞いたトレハは慌てて頭を下げると、トレイを手に早足で部屋を出て行ってしまった。
(ああもう、只でさえ時間に追われているってのにムカつくわね、あいつ……)
 トレハが寝起きに飲むのはコーヒーだと覚えていたから、気を利かせて用意していたというのに、あっさりと踏みにじって嫌がらせの道具とするなんて。
 ……というか、貴族のお屋敷で仕事をしていて、家主やその家族を好きになれなかった事は少なくないものの、彼は個人的な感情を含めて、その中でも別格と言えそうだった。

「……お待たせ致しました。申し訳ありません」
 やがて、五分程度のタイムロスを経てお茶を淹れ替えて戻ったトレハが、静かなノックの後で再び入室してくる。
 ちなみに、こんな理不尽な要望にも慌てず、バタバタと走らない所は悪くない対応と言えた。
(もしかして、ルマージュ様に叱られたわたしを反面教師にしたのかな……?)
 だとしたら、ちょっとフクザツだけど……ってのはともかくとして。
「……それで、紅茶の銘柄は確認しなかったが、大丈夫なのか?」
 すると、ラクゥエルは出直して来たトレハへ、揚げ足取りを楽しんでいるかの様な意地の悪い視線を向けてそう尋ねる。
 一見、審査ならではの嫌らしいやり取りに見えるものの、実際の勤務でも目を付けられてしまえば、この程度は日常茶飯事だった。
 ……だから、従者ってのは主人に嫌われないだけでなく、お気に入りになり過ぎても無駄に絡まれて都合が悪いのである。
「は、はい。良質のダージリン・ティーをお持ちしましたが……」
「…………」
 ともあれ、そこで浮き足立つ事もなく、遠慮がちに答えたトレハの返事を聞いて、ラクゥエルの目が一瞬険しくなる。
「……ああ、そうだな。それは確かに紅茶の中では僕の好物だ」
 しかし、それからぶっきらぼうにそう言い放ったかと思うと、ラクゥエルはトレイを持ったトレハに近付き、勝手にポットを手に取って、自らティーカップの中へ琥珀色の液体を注いでいく。
「あ、あの……?」
 ……おいおい、貴族の嫡男ともあろう者が、はしたない真似を衆目に晒してまで、トレハの仕事を奪いますか。
(もう、ワケわかんないんだけど、この人……)
「ふん、湯加減も完璧だな。腕が上がったし、ちゃんと覚えていたのかよ」
 それから、一口だけ啜ってすぐにカップを離すと、複雑そうな表情を浮かべて呟くラクゥエル。
 ここで、素直に褒められたのはちょっと不気味なものの、当然と言えば当然だった。
 「付け焼刃」とはいえ、料理だけでなくお茶の淹れ方も王都随一と称されるタレットさんから、しっかりと伝授されているはずだから。
「ありがとうございます!お気に召していただけて、嬉しいです」
 すると、ワガママ王子からのお褒めを受けて、本当に嬉しそうな笑みを浮かべながらお辞儀をして見せるトレハ。
「…………」
 いくらロールプレイだからって、どうしてその男へ向けてそんな優しい笑みが出来るのよ……?
「……嬉しい、だと?」
 しかし、ラクゥエルはそこで怒りに満ちた顔を見せたかと思うと、カップの中に残っていた紅茶をあろう事か、トレハへ向けてぶちまけてしまう。
「ああ……っ?!」
「ちょっ、何を……っ?!」
「メイフェルさん……っ」
「…………っっ」
 それを見て、わたしはとうとう声を挙げてしまったものの、すぐ近くに座っていたラトゥーレから鋭い制止の声が届いて唇を噛む。
(いけない……。でも……っ)
「そんなに、僕を不機嫌にさせて楽しいか?!何も知らない他人を気取っておいて、いちいち姑息なんだよ!」
 いきなり受けた狼藉に、顔を怯えに歪めて呆然とした顔を見せるトレハへ、刺す様な冷たい視線を向けながら感情的に捲くし立てるラクゥエル。
 どうやら、トレハが自分の習慣を覚えていたのが、逆に逆鱗となってしまったみたいだけど……。
「こ、姑息だなんて……私はただ、旦那様に喜んでいただこうと……きゃっ?!」
「うるさいっ!……それともこの僕が、お前に何をしたのか忘れたとでも言うのか?!」
 一方で、相手の怒りの理由も分からず、トレハは自分の理解の範囲内で弁解しようとするものの、ラクゥエルは手に残った空のカップを彼女の足元へ
投げ捨てて、それを遮った。
「……っ?!そ、それは……」
「……どうして、僕の目の前でそんな笑みが浮かべられる?この僕が怖く……憎くないのかよ?!」
(ちょっと……さっきから何を口走っているのよ、あいつは?!)
 もとより波乱は想定済みとしても、明らかに様子がおかしくなってきた。
 最初はこれもシナリオのうちと思っていたらしい周囲も、舞台から漂う不穏な空気を感じて、俄かにざわつき始めているし。
「に、憎いなどと……その様な気持ちを抱いた事は一度もありません。しかし、姉に罪を犯して欲しくない一心でラクゥエル様を傷付けたのは、申し訳ないと思っています」
 しかし、そこで怯えた顔で俯きながらも、態度を豹変させたラクゥエルから逃げる事無くそう訴えるトレハ。
「……な、何だと?」
「私は、御主人様の為にお仕えするメイドですから……至らぬ点があって、お気に召されなかったのならば、それは自分の落ち度です」
(トレハ……)
 あなたという人は……。
「……くそっ、僕はな……僕は本気だったんだぞ!」
 すると、それを聞いたラクゥエルは理性のタガが外れてしまったかの如くヒステリックに喚いたかと思うと、強引にトレハを床へ押し倒してしまった。
「ラ、ラクゥエル様……?!」
「お前がいつも、そんな優しい笑みを見せるから……僕は狂ってしまったんだよ!そんな気持ちも知らないないで、お前は……っ」
「……申し訳ありません……ですが、私はラクゥエル様にはメイドとしてお役に立ちたい一心で……」
「だったら、お前は誰のモノなのか、もう一度教え込んでやろうかっ?!」
「うああっ?!」
(あの、馬鹿……っ!!)
 そして、ラクゥエルの平手打ちがトレハの頬を打ちつけた瞬間、わたしは何かがぷつんと音を立てて切れた様な感覚と共に、座っていた席から立ち上がった。
「トレハ……っ!!」
「落ち着きなさい、メイフェル!ここは警備に任せた方がよろしいですわ。今、貴女が乱入すれば……」
「だから、何だってのよっ?!」
(トレハを……守らなきゃ……っ)
 そんな事は関係ない。今のわたしにあるのは、ただその一点だけだから。
 わたしは隣で制止をかけるラトゥーレの手を振り払うと、怒りやら焦りやら使命感やら、とても一つには絞れない色んな感情に後押しされて、誰よりも早く舞台へと駆け上がっていた。
「……このっ、いい加減にしなさいよっ!」
「う……っ、なんだお前……ぐはぁっ?!」
 それから、迷い無くわたしはトレハに覆い被さっていたラクゥエルの身体を突き飛ばすと、追い討ちをかける様にして、全霊の力を込めた拳を、彼の頬へと叩き込んでやる。
 ……正にそれは、生まれて初めてと言ってもいい位の、会心の一撃だった。
「ま、マスター?!」
「……困ります、ラクゥエル様。うちのメイドへその様な御無体をなされては」
「ぐ……っ、き、貴様、この僕を誰だと……」
「関係ありません。マスターにとって、登録してくれているメイドは家族も同然。黙って見ているワケには参りませんので」
 その後、頬を抑えて無様に床へ這い蹲りながらこちらを睨むラクゥエルに、わたしは伸ばした手でトレハを庇い、きっぱりとお断り申し上げた。
「くっ、エージェンシーが貴族を敵に回すつもりか?!ましてや、この僕はワイズミュラー家の……」
「関係ないって言ってるでしょ?!クライアントの要望に応えるのと同時に、安心してお勤めを果たせるよう、メイドを守るのがエージェンシーの務め。目先の利益を求めて悪質な客の暴挙を黙殺するほど、わたしは落ちぶれちゃいないわよ!」
 こんな奴がいるから、雇用主とメイドの間で起こる悲劇が無くならないんだ。
 わたしはもう一発お見舞いしてやる代わりに、言葉遣いすら気にするのを止めて、真っ向からタンカを切ってやった。
「な、なんだと……」
「……それと、トレハはあんたには指一本触れさせない。もう二度とね」
「この下郎が。出過ぎた真似をした報いは、必ず受けさせてやるぞ!」
「ああそう。だったら、力ずくでも奪って行きなさいよ。出来るものならね?!」
「女の分際で……生意気なんだよ!」
「……そこまでです!両者引きなさい!」
 そこでとうとう、一触即発だったわたしとラクゥエルの本格的な掴み合いが始まろうとした瞬間、ルフィーナが鋭い声で一喝すると共に、審査員席から
立ち上がる。
「ルフィ……いえ、姫様……」
「王室主催の神聖なる行事で、野蛮な真似は許しません。控えなさいメイフェル、これ以上の行為は妨害と見なします」
 それからまず、わたしの方へ厳しい視線を向けながら、淡々とした口調で引き下がる様に命じてくるルフィーナ。
 ……だけど、そんな彼女からは、無謀なわたしを諫めているかの様な気持ちが伝わってきていた。
「は、はい……」
「お待ち下さい姫様、この者達は私の手で成敗を……」
「お黙りなさいっ!……ラクゥエル、貴方には失望しました。誇り高き王国貴族の名家と呼ばれる嫡子に、この様な品格の欠片も感じられない粗暴者が
いるとはね」
 続けて、ルフィーナはラクゥエルの言葉を遮ると、圧倒される様なプレッシャーを視線と言葉に乗せて叱り付ける。
 今までわたしの前では一度も見せたことの無い、王国の名の如く「獅子」を思わせる存在感は、まさしく王族たるに相応しいものだった。
「……く……っ」
「さて、クロムウェル。この件は親の愛情に溺れて、自分の息子を特別審査員に推した卿の責任よ。どう始末をつけるのかしら?」
「……守衛達、何をしている。早くその狼藉者をつまみ出せ」
 その後でルフィーナに名指しで促され、努めて冷静に見せかけながら、立ち上がって静かに命じるクロムウェル卿。
 ……しかし、その目は怒りで満ちていた。
「ち、父上?!」
「私を父と呼ぶな、この面汚しが。……姫様、此度の件は当主である私が責任を持って処断させて頂きます。また、そちらのエージェンシーが法的な手続きに乗っ取り、然るべき賠償を求めるのであれば応じましょう」
 そしてそう告げると、クロムウェル卿は拘束されたラクゥエルと共に会場を立ち去ってしまった。
「……ふう。トレハ、大丈夫だった?怪我はない?」
 やがて、ラクゥエル達の姿が会場から消えた後で、ようやく張り詰めていた緊張が解けたわたしは、一度だけ大きな溜息を吐いて、背中の後ろへ下がらせていたトレハの方を振り返る。
「え、ええ……。でも、二次審査が……」
「まぁ、仕方が無いじゃない?メイドの仕事を続けていると、時にはこういう事もあるわよ。……ただ、少なくともわたしは間違ったコトをしていない自信だけはあるから」
 だから、皆まで言わないで。
「マスター……」
「とにかく、今はトレハが無事なら、それと秤に掛ける物なんて、何もないわ」
 わたしはそう続けると、卑怯者を相手に最後まで自分の信念を貫いた自慢の弟子の頭を、念入りに優しく撫でてやった。

                    *

 それから、しばらくコンテストが中断されて会場も一時は騒然としたものの、やがて全員の演技が約一名を除いて無事に終了し、後は結果発表を待つのみとなっていた。
「……さーて、誰が優勝なのかしらねぇ」
「そうですねぇ……今回はやっぱり、姉さんですかね?」
 そして、会場内では表彰式の準備が慌しく進められていく中で、わたし達は身を寄せ合う様にして席に座ったまま、落ち着かない様子の他の出場者や関係者達を尻目に、すっかりと気分が楽になってしまっていた。
 誰が優勝するのかは分からないけれど、少なくとも、ラクゥエルの暴走にわたしの乱入で中断騒ぎになった自分達以外の誰かである事だけは間違い
無いわけで。
(せっかく最後まで残ったのに、こんな事になってゴメンね、ルフィーナ……)
 わたし達にとっても理不尽な結果に終わって無念ではあるんだけど、こればっかりは運命の巡り合わせだから、恨んでも仕方が無い。
 ……まぁ、強いて良かった部分を挙げるならば、トレハを傷付けたあの馬鹿息子を思いっきりぶん殴ってやれた事くらいか。
 お陰で、脱力気味ながらも、妙にスカッとした気分だったりもして。
「結局、二次審査の壁はまたも破れなかったわね……やれやれ」
 祖父の代からの悲願であるコンテスト優勝者の輩出は、またも叶わず。
 それでも、うちの様な弱小がここまで残れた時点で大金星だろうし、わたしじゃ頼りないと出て行った人達も、少しは見直してくれると嬉しいんだけど。
「でもまぁ、悔いは残ってないです」
「……あによ、なんだか嬉しそうじゃない?」
 しかし、溜息混じりにぼやいてしまう傍らで、悔しさや残念がる様子も見せず、むしろ今の状態が満更でもなさそうな穏やかな笑みを見せているトレハに、肩を竦めながら尋ねるわたし。
「マスターには申し訳無いですけど、私は結構幸せですよ?」
「なんでよ?」
「だって、全てを台無しにする覚悟で私を守ってくれたじゃないですか。……実は、広場のベンチで倒れていたあの時、空腹と疲れでもう二度と目が覚めないと楽でいいのにとすら思っていたのに、最後の最後でこんな素晴らしいマスターと出逢えるなんて。私はこの国の生まれではないですが、思わず女神様に感謝してしまいました」
「……買いかぶり過ぎよ。わたしは当たり前の事をやっただけ」
 だよね……?お父さん、お母さん……。
「でも、それを当たり前と言えてしまうのが、マスターのマスターたる所以だと思います」
「そんなもんかしらね……」
「さて、それではいよいよ結果発表と参りますので、出場者の方はどうぞステージの方へお上がりください♪」
 やがて、そんなとりとめのない会話を続ける中、司会のフロールさんから会場内へ向けて告知が入る。
「ほれ、行くだけ行ってきなさいよ。全員が揃うのが礼儀ってもんだし」
「はぁーい……」
 そこで、わたしが背中へ回した手で軽く肩を叩いて促すと、トレハはこの場を離れるのが名残惜しそうな生返事と共に立ち上がり、ステージの方へと
小走りに駆けて行った。
(これで結局、ラトゥーレやスクラとの勝負はわたしの負け……か)
 どうせ負けるなら、トレハの望み通りにスクラの優勝でスッキリと決めてくださいな。

                    *

「はい、それでは全員が揃いましたので、まずは会場の皆様、今回も王国最高のメイドを目指し、高いレベルで競い合った出場者達へ向けて、暖かい
拍手をお願い致します♪」
 それから、しばらくして式が始まり、まずはフロールさんの高らかなかけ声に促されて、場内から割れんばかりの拍手が出場者達へ浴びせられてゆく。
(王国最高のメイド……ね)
 かつてはわたしも高みを目指し、前回のコンテストでは今トレハが立っている場所で淡い期待を抱いていたのに、今は何だか随分と遠い場所に見えてしまっていた。
「それでは、発表致します。第18回王室主催メイドコンテストの、栄えある優勝者は……」
 ともあれ、やがて拍手が鳴り止むと、今度は王立音楽隊によるドラムロールが鳴り始める。
「…………」
(ゴメンね、トレハ……)
 出来ればもう一度だけ、わたしの手で鍛えて挑戦させてあげたかったけど……。
「……優勝は、文句無しの最多得票を得た、エントリーナンバー18番、エトレッド・エージェンシー所属の、トレハローズ・モンテリナさんです!」
 しかし、緊張の間の後で司会者から思いもよらなかった優勝者の名が高らかに告げられ、祝福のトランペットが澄んだ空へと響き渡った。
「……へ?」
「ええ……っ?!」
 同時に、再び万雷の歓声と拍手が飛び交う中で、当事者のわたし達だけが呆然とその場で目を丸くしてしまう。
「これは一体、どういう事よ……?」
「ふぅ……」
「これで、個人的にはまさかの最年少記録更新に、図らずも今回は18番がラッキーナンバーとなってしまいましたが、それでは、審査員長のジェラルド・
ウェッジウッド公爵、受賞理由の御説明をお願い致します!」
「……うむ。今回のこの発表に衝撃を受けた者は少なくないとは思うが、おそらく一番驚いているのは、本人達であろう」
 続けてフロールさんからの紹介を受け、審査員長を務めたウェッジウッド卿が席から立ち上がると、スクラから頭を撫でられているトレハの方へと視線を向けながら、鷹揚とした声で語り始めた。
 ……そりゃそうです。わたしがやったのは、棄権も同然なのに。
「しかし今回、あの者達より王国が求めるエージェンシーの理想像を垣間見せてもらった。正常な形での演技は終了しなかったものの、姫様をはじめと
した審査員の総意として、それが授与を決めた理由と言える」
 ともあれ、すぐには実感が沸かず、離れた場所からお互いの目を見合わせるわたし達をよそに、ウェッジウッド卿は会場全体を見回しながらそう告げると、上座のルフィーナが大きく頷き、他の審査員達も拍手で同調していく。
 ……ただ一人、空席のクロムウェル卿を除いて。
「皆の承知の通り、我が王国では近い将来において、王国領地内へ限定しているエージェンシーの派遣範囲を他国へ広げていく計画が進められている。そんな時代の訪れと共に何より求められるのは、誇りを持って誰に対しても忠実かつ純粋に職務へその身を捧げられるメイドと、彼女達を守るマスターとの、強靭な“絆”なのだ」
(強靱な、絆……)
「……さぁ、そなたも立ち上がられよ、メイフェル・エスプリシア。貴公は、かつて少数精鋭の極致としてその名を轟かせたエトレッド・エージェンシーの崇高なる理念を受け継ぎ、最高の形で我らの前で体現して見せてくれた。何ら気後れする事無く、二人胸を張ってこの結果を誇るがよい!」
「は、はい……!」
 そこでわたしは、ウェッジウッド卿に呼応して立ち上がるや否や、今度はこちらへ向けて惜しみない拍手が寄せられた。
 ……しかも、その中には渋々といった様子ながら、隣の席に座っていたライバルまでもが含まれているし。
「確かに、今回はお二人で受賞といった感じですしね〜。私も拝見していて羨ましくなりましたけど」
「悪意を持った顧客に対しても己を失わず、あくまで職務に殉じたトレハローズも立派だったが、そなたも経営者の立場にのみ囚われず、良くぞマスターとしての信念を貫いた。今後もエージェンシーがその本来の進むべき道を失わぬ様、模範となってもらいたい」
 そして、ウェッジウッド卿は鋭い視線でこちらを見据えながらそう締めくくると、わたし達を称える歓声がさらに大きく包み込んでくる。
「……だってさ、ラトゥーレ?」
「まぁ、そんな予感はしておりましたわ」
 やがて止まない拍手と歓声に、トレハと二人で何度も頭を下げて返礼していく中で、隣で腕組みをしながら憮然とした表情を浮かべているラトゥーレの方へ振り返ると、負け惜しみにも聞こえる素っ気無い言葉が返ってきた。
「そう?てっきりスクラが勝つと思って、わざわざわたしの隣に座ったのかと思ってたのに」
「……だってあの時、真っ先に飛び出して行った貴女には、腹立たしい程に見せ付けられてしまいましたから」
 しかし、そう続けて肩を竦めるラトゥーレの顔は、どこか微笑んでいた様にも見えたりして。
「ラトゥーレ……」
「……ふん。全く、とんだ茶番でしたわ」
 ただ、それも長くは続かず、ラトゥーレお嬢様はすぐにそう吐き捨てると、いつもの様に肩をいからせながら立ち去ってしまった。
「やれやれ、素直じゃない奴……」
 ……まぁ、らしいと言えばらしいけど。
「んふふ、やりましたマスタぁ〜♪」
「……あはは、まさかこんな展開が待っていたなんてね?」
 その後、授与されたトロフィーを持ってわたしの元へ全力で駆け戻り、そのまま押し倒す勢いで胸に飛び込んで来たトレハを受け止めながら苦笑いを
浮かべていると、満面の笑みでこちらへ向けて大きく手を振ってきているルフィーナの姿が目に止まる。
(……まぁいっか。結果オーライって事で)
 様々な偶然や因果が重なった結果だろうと、この場にいる誰からの文句も無く、わたし達は優勝者として認められたのだから。
「ほら、ルフィーナも祝福してくれてるわよ?一緒に手を振り返しましょ?」
「あ、はい……!本当にありがとうございます、姫様ー!」
「…………」
(ともあれ、これでうちのエージェンシーはもう大丈夫かな……?)
 トレハは、わたしとの出逢いを女神様に感謝したと言ってくれたけど、自分にとっても彼女こそが、夢を叶える為にもたらされた、最高の授かりもの
だったと思う。
 ならば……。

                    *

「……お待たせいたしました、マスター」
 そして、翌日の夕方にエージェンシーのメンバーや関係者を集めて催した、ささやかな祝勝パーティーが終わった夜遅く、わたしは大事な話があるからと告げて、自室へトレハを呼び出していた。
「ううん、よく来てくれたわね、トレハ?」
「い、いえ……。それで、折り入ってお話とは?」
 後片付けを終えた後で、呼び出しに応じてすぐに来てくれた待ち人に、わたしは笑みを浮かべながら迎え入れると、トレハの方はソワソワと落ち着かない様子で早速用件を尋ねてくる。
「えっと、まずは元々わたしのワガママで始めたコトを、ここまで付き合ってくれてありがとう。心から礼を言うわ」
「マスター……それは言わない約束じゃないですか。お互いの為と、そして何より自分の為に頑張るんだからっていつも教えて下さっていたのはマスターですよ?」
 そこで、とにもかくにも、どうしても最初に言いたかったお礼を述べると、明らかに不満そうな顔を見せてくるトレハ。
「ええ、そうね。……ただいずれにせよ、あなたはこれでもう一切の過去には囚われず、一人前のメイドとして何処へ行っても立派にやっていけるはず」
 コンテスト優勝で公式Sランクの称号を受けて、あっという間にわたしも追い越されてしまったしね。
 ……もっとも、フロールさんの言葉によれば、わたし達二人で受けたSランクだそうだけど、これからはこの肩書きがトレハを守ってくれるはず。
「どこでもって、私はどこにも行きませんよ?ずっとマスターのお側でお仕えするつもりですから」
「……ありがとう。そう言ってもらえるなんて、マスター冥利に尽きるわね」
 両親の死去で代が変わった時、優秀な人間から次々と抜けて行った時のショックが未だに心の傷として残っているわたしにとって、本来は涙が出る程に嬉しい台詞だった。
(だけど……)
「マスター、今日は祝勝パーティーの時からいつもと比べて様子がおかしかったですけど、一体どうしちゃったんですか?まるで……」
「……さてトレハ、ここからが本題よ。今回のコンテストで優勝したエージェンシーにはね、ルフィーナ姫の為に新しい従者の派遣を依頼される予定なの。勿論、誰でもいい訳じゃないわ」
 そこで、昨日までとは変わってしまった空気に勘付いたトレハが、怪訝そうな顔を見せて問い質そうとしてくるものの、わたしは構わず話を続けていく。
「ええ、それはパーティーの最中に聞きました」
「……だけど、実はもうすぐルフィーナは自分の従者一人を連れて、ドランビュイ国へとお嫁に行く事になっているの」
 勿論、その時に供する従者は現行制度で許されている派遣範囲を越えるものの、これに関しては特例として認める方針らしく、この契約がまとまれば
国外へ向けて”公式に”派遣を行った最初のエージェンシーとなり、大きな実績と法外な額となる報酬の両方が得られるから、経営者の立場だけで見れば、決して悪い話じゃないんだろう。
 ……しかし、その代償となるのは……。
「つまり、もう戻っては来られないと?」
「さすがに、一生戻れないかどうかは分からないけれど、一旦はルフィーナと一緒にお別れを告げる事になるでしょうね。王室との契約だから、よほどの
理由が無い限り途中破棄は出来ないものと考えた方がいいわ」
「そして、その姫様の従者となるのは、コンテストで優勝した私、なんですよね……?」
「違うわ。ルフィーナの元へ行くのは、このわたしよ」
 しかし、そこで複雑な顔を見せるトレハに、素っ気無くそう告げるわたし。
「ま、マスターが?!」
「七年前、わたしはルフィーナとこの場で約束したの。いつかメイドとして彼女の側に仕えるってね。その契りも交わしたわ」
「それで、マスターと姫様は……」
「一次審査が終わった後で、ルフィーナがうちへ遊びに来たでしょ?あの時に今の立場を明かされて請われたの。一緒に来て欲しいって。わたしと一緒
なら寂しくないからって……」
「でも、マスターが行ってしまわれたら、このエージェンシーはどうなるんですか?」
「……後継者ならいるわ。トレハとスクラ、あなた達姉妹に任せる」
 そこで、わたしはスクラとの勝負に勝った後から考え始めていたコトを静かに切り出した。
「え?」
「実はね、今回スクラと賭けをしていたの。もしコンテストで彼女に負けたらトレハを返す代わりに、こちらが勝てばリースリングとの契約を解除してうちへ来るってね。彼女なら、わたしの代わりに経営を任せても上手くやってくれそうだし、今後は姉妹でここを切り盛りして欲しいの」
 どの道、スクラの本意はトレハと一緒に居たいという一点だろうから、難色を示す事も無いだろう。
 ……逆に、わたしが戻る必要に迫られる状況なんて、意地でも作らない様にしてくれるだろうし。
「それじゃ、メイシアさんの事はどうするんですか?」
「あなたがいい刺激になってくれたお陰で、あの子もこの短い間で随分と成長してくれたわ。……もうそろそろ、わたしの手から離れてもいい頃よ」
 むしろこれからは、あの子自身の為にも手探りで自分の道を見つけていって欲しい。
 ”妹”として、どうしても甘えたり甘やかしてしまうわたしよりも、トレハやスクラの側で一緒に頑張ってくれた方が、きっと更に高いレベルでの成長が望めるだろうから。
「し、しかし……」
「勿論、みんなには悪いと思ってる。……だけど、遠く故郷を離れて独りぼっちになってしまうルフィーナを見捨てる事は出来ないの」
「…………っ」
 それから、あくまでルフィーナの事を主軸として語るわたしに、やがてトレハは何も言わなくなり、拳を握り締めながら俯いていく。
「分かって、トレハ。ルフィーナがわたしを必要としているの。そして、彼女を助けてあげられるのがわたしだけなのなら、今こそ遠い日の約束を果たす
べき……」
「……だったら……だったら、私が貴女を必要としているこの気持ちは、一体どうなるんですかっ?!」
 しかし、最後まで言い終える前に、トレハは涙が一杯まで溜まった瞳と震える声で激昂して見せると、そのまま踵を返して部屋を飛び出してしまった。
「ちょっ、トレハ……っ?!」
「…………」
 そういえば、あの子がわたしの前であんな顔を見せたのって、これが初めてだっけ。
「…………」
「……でも、だからって仕方が無いじゃないのよ……」
 そしてこの時、感情を爆発させたトレハの姿に気圧されて、すぐに彼女の後を追わずに背中を見送ってしまった事を、わたしはすぐに後悔させられる
羽目になってしまう。

Epilogue わたしのたからもの

「……もう、意地悪しないで教えてよ。それを言いたくてわたしを呼んだんでしょ?」
「ふ……っ、出来ればお前自身で見出して欲しかったが……まぁいい」
 そこで、肩を竦めながら結論を急がせるわたしに、父はまるで娘との会話が終わってしまうのを残念がる様に苦笑を浮かべると、既に煙が消えたパイプを口元から離し、再び真剣な視線をこちらへ向けてきた。
「いいか、メイフェル。たった一つだけ、私がお前に望む事がある。……それは、お前がエージェンシーの家に生まれた義務感に縛られて欲しくはないという事だ」
「どういう事?」
 そして、徐にそう告げてくる父へ、わたしはすぐに言葉の真意を尋ね返す。
 今更そんな事を言われても、自分は元々その義務感で、十五歳になるのと同時にメイドの見習いを始めたというのに。
 ……まぁ確かに、今はそれ以上のまだ誰にも言えない夢があるんだけど。
「エージェンシーにとって一番大切なのは、ただ存続する事ではなく、その理念を守り通す事。しかし、もしお前が跡取りとして二代続いたこのエトレッド・
エージェンシーを存続させたい想いしか持っていないとすれば、いずれ何処かで歪みが生じてしまう可能性がある」
「理念……?」
「顧客には信頼と満足を、そして我らを頼り、登録してくれたメイドには機会と安心を。そこに共通しているのは、エージェンシーとは双方の望みを出来うる限り最大限に叶える存在であるという事だ。その天秤がどちらかに傾いてしまえば、もう存在意義は無くなってしまう」
「それじゃ、わたしはどうしたらいいの?」
「言うだけならば、極めて単純な話だ。お前が義務感からでは無く、自らの純粋な望みとして、その意思を誇りとする事。果たして、簡単なのか難しいのかは分からないが……これこそ、私がお前に次代を託す唯一の条件だ」
「……意思を、誇りに……」
「…………」

                    *

「……ん……?」
 やがて、意識が戻った時には懐かしい父の姿は消え、代わりに薄暗くて殺風景な天井の風景が目の前に広がっていた。
(夢……か……)
 そこで、わたしは眠りの世界から目を覚ました事を自覚すると、むっくりと上半身を起こす。
 室内は壁掛け時計の秒針を刻む小さな音だけが響いていて、そんな静寂な空気がふわふわとした起き抜け頭には実に心地良かった。
「ふぁぁぁぁ〜……っ」
 何だか久々に、懐かしい夢を見ていた気がする。
 しかも今度は、あの時に父親と交わした会話も途切れず脳裏に残っているし。
「……存在意義……か」
 そして、その内容をぼんやりと思い出しつつ、真っ先に浮んだ言葉をぽつりと呟いた所で、部屋のドアをノックする音が響いてくる。
「どうぞ」
「おはようございますです、マスター♪」
「……はい、おはよう。メイシア」
 それから、トレイに洗面器とタオルを乗せてモーニング・コールにやって来たメイシアへ、わたしは静かに挨拶を返した。
「あは。今日もメイシアが起こしに来る前に起きていたとは、えらいえらいです♪」
 すると、既に起床していたわたしを見て、メイシアは満足そうな笑みを浮かべたかと思うと、トレイをテーブルの上に置いた後で頭を撫でてくる。
「あのね……」
 ……とはいえ、確かについ最近まではメイシアに起こしてもらわないとダメだったんだから、寝起きに関してはまだまだ偉そうな事が言える立場でも無かったりして。
「スクラさんが既に書斎で待っているですよ。早く行ってあげるといいです」
「ああうん、分かった」
 ともあれ、わたしは頷くと、差し出された洗面器に満たされていた冷水で手早く顔を洗う。
(さて、今日も忙しい日になるかな……)
 まぁ、最初の頃と比べれば、大分慣れてはきましたがね。

                    *

「……おはようございます、マスター」
「おはよう、スクラ」
 やがて、着替えを終えて書斎へ出ると、書類を抱えたまま机の側で控えていた、うちのエプロンドレスを身に纏ったスクラがこちらへ一礼してくる。
 ……やっぱり、スクラもエトレッド・エージェンシーの制服が一番似合うわね……と満悦しまうのは、さすがに自惚れすぎかな?
「では早速ですが、こちらからどうぞ」
「ありがとう」
 そして、席へ座るのを見計らって差し出されたスクラお手製の予定表の束を受け取り、手早く目を通していくわたし。
(ん〜、繁盛してるのは大いに結構なんだけどね……)
 以前はワンシートで大体管理出来ていたのに、ここ最近は人員も増え、お仕事の依頼も雪だるま式に舞い込むようになって、その確認作業だけでもちょっとした大仕事である。
 ……そんな訳で、コンテストが終わってから今日で一ヶ月余り、今では大手様と肩を並べる程じゃないとしても、すっかりとスクラの助けが無ければ処理しきれなくなっていた。
「はぁ……。そろそろ、専属の秘書やマネージャーを募集する事を考えないとダメかしらね」
 それから、ひと通りの依頼リストとスケジュール表を追いかけた後で、その間にスクラが淹れてくれた絶品のコーヒーをすすりながら、溜息混じりに呟く
わたし。
「私では不服ですか?」
「不服は無いけど、スクラは秘書仕事や新人指導よりも、うちの看板メイドとして王宮とかへ派遣したいのよね。あなたもそろそろ現場が恋しいでしょ?」
 約束通りにうちへ来てくれた後ですぐに検定試験を受けさせ、公式Aランクに一発合格してしまった能力もだけど、何よりコンテストで準優勝を果たした実績は、王族の従者たるに充分相応しいはずだった。
 現に、スクラを派遣して欲しいという貴族からの問い合わせも途切れること無く来ているし、わたしの片腕として凄く助かってはいるんだけど、やっぱり
勿体無いと言わざるを得なかった。
 ……それと、ルマージュ様もいたく興味をお持ちみたいだしね。
「別に、私はどちらでも構いません。今はマスターのものになるという約束を果たしている身ですから、お好きな様に使って頂いて結構です」
 しかし、そんなわたしの提案に、さして興味も無さそうに返答してくるスクラ。
「……そう言われるのもやぶさかじゃないけれど、スクラもそろそろ自分のやりたい事を相談してくれてもいいのよ?登録メイドの希望を極力叶えてあげるのも、エージェンシーの大事なお仕事なんだから」
 まぁ結果的とはいえ、スクラの邪魔をしたわたしが言えた義理じゃないのかもしれないけれど、ただそれ故に、うちに付いてやっぱり正解だったと思えるようになって欲しいのよね。
 ……誰かさんが聞いたら妬きそうだけど、スクラはわたしがマスターとして最初に一目惚れしてしまった逸材なんだし。
「お気遣いは有り難いのですが、私は今でも充実した毎日を送っているつもりですので、どうかお気遣いなく。それより、次回募集分の登録希望者の
アプリケーションをまとめていますので、そちらにも目を通しておいて下さい」
 すると、スクラはわたしが続けて向けた言葉も、やっぱり興味無さそうにスルーしてしまうと、新たな書類の束を差し出してきた。
「また今回も、随分と沢山の人が応募してくれているわね……」
 本来は喜ぶべき事なのに、それを見て思わず苦笑いを浮かべてしまうわたし。
 あれから、抜けて行った人達が全員じゃないとしても戻って来てくれて、更に経験・未経験を問わず新たな登録希望者も増えたまでは良かったものの、あまりにも短期間に殺到しすぎて、今までは随時受け付けていたのを、定期的に少数だけ募集するという形に制限せざるを得なくなってしまった。
「ええ、このままでは募集を一時凍結するか、事業拡大するかの選択を迫られそうですね」
 本来、少数精鋭での密着指導をモットーとしてきたエトレッド・エージェンシーとしては、規模をあまり大きくするのは望まないんだけど、ただ同時に、
うちを選んで志願してくれた人を無碍にはしたくないという気持ちも強くて、そこは板ばさみというか、嬉しい悲鳴だった。
「……元々、コンテストって参加して予選を突破するだけでも宣伝効果は高いんだけどさ、ちょっとこの勢いは異常よね?」
 あと、コンテスト後に新聞や女性向け雑誌からの取材が増えたのも、大きな要因になっているのかもしれない。
「まぁそれだけ、二次審査でのマスターの姿が、世の女性達に強い感銘を与えたという事じゃないですか?」
「そう言われたら、確かに光栄だけどね……」
 でも、だからといって、今王都内で活発になっている女性の権利開放運動の象徴として担ぎ上げられそうになったのは、さすがに全力でお断り申し上げたけど。
 ……お生憎さまながら、自分の仕事に精一杯なわたしのキャパシティでは、そこまで気が回りません。
「ただ、個人的には美味しい所を持っていかれた気分で、あまり面白くありませんが」
 するとそこで、僅かに口を尖らせて拗ねた顔を見せてくるスクラ。
「ま、わたしが行かなきゃ、スクラが暴れ出して大惨事になりそうだったからね?」
 そんなスクラの仕草に、わたしは抱きしめてやりたくなった衝動を抑えてそう告げると、ニヤリと意地の悪い笑みを返してやる。
 相変らず普段は無愛想ながら、わたしの前では時々こうして自分の本音を見せてくれるのが、何だか可愛くて仕方が無かった。
 ……というか、実際につい抱きしめてしまうコトも多々あるものの、まだまだ反応は硬いので、その心をじわじわと溶かしていくのもまた楽しみだったり
するんだけど……まぁ、それはともかくとして。
「否定はしません。彼はトレハを傷付けた男ですし、たとえあの子が恨んでなくとも、私の方は別です」
「だからって、今さら軽はずみなマネはしないでよ?……それで、そのトレハはまだ戻らないの?」
 やがて、ようやく会話の中でトレハの話題が出てきたのを受けて、わたしは出来るだけ素っ気無い口調でスクラに尋ねてやる。
「……みたいですね。未だに音沙汰はありませんし」
「まったく、今頃何をしているんだか……」
 そして、スクラの口から即座に戻ってきたお決まりの返事を聞いて、手に持っていた応募書類を机の上へ投げ出すと、椅子の背もたれに身体を預けながら溜息をつくわたし。
(……最後の最後で、大失態をやっちゃったなぁ……)
 あの夜、初めてわたしの前で激昂し、泣きながら部屋を飛び出して行った後に、そのままトレハは姿をくらませてしまった。
 一応、律儀に『思う所があるので、しばらく旅に出ます。探さないで下さい』と書き置きを残していたので、いずれは戻ってくるつもりなんだろうけど。
「……お陰で、初めて王族から貰える予定だった大仕事を逃す羽目になっちゃったしさ」
「あら、あの話は、もう完全に無くなってしまったんですか?」
「仕方が無いでしょ。わたしの方が断っちゃったんだから……」
 そこでわたしは、やや未練がましく肩を竦めながらぼやいてみせると、二週間前にルフィーナと会った時の事を思い返していた。

                    *

「それでは、エトレッド・エージェンシーの第18回コンテスト優勝を祝して、乾杯♪」
「……乾杯」
 星辰の麓亭のテラス席で、マスターが出してくれたとっておきの赤ワインを注ぎ、ルフィーナの乾杯でグラスを重ねると、晴天の日差しに当てられた
ルビー色の液体が、キラキラと輝きながら揺れていく。
 大切な常連の特別な日にしか出さない十八年もののそれは、正に「祝杯」と呼ぶに相応しい一杯だけど、ただこれを一緒に飲むべきもう一人がこの場にいないのは残念だった。
(いや、どっちみち未成年だったっけ……?)
「……ありがとう、メイフェル。本当にここまで辿り着いてくれたのね」
 それから、お互いにまず一杯目を飲み干した後で、微笑を浮かべながらルフィーナがお礼を向けてくる。
「……うん。正直驚いたけど、みんなのお蔭様でね。ルフィーナにも本当に感謝してる」
 それに対して、ナプキンで口元を拭いながら、控えめに頷くわたし。
 目の前で心から喜んでくれているお姫様に、タレット師やルマージュ伯爵、ボンペイさんにジャック、更にスクラやラトゥーレもある意味感謝の対象と言えるし、影ながらサポートしてくれたメイシア、そして何より厳しい訓練に耐え、奇跡を起こしてくれたトレハに……と、枚挙に暇がない。
「あら、随分と謙虚なのね?確かに一人では成し遂げられなかったかもしれないけれど、メイフェルの担った役割だって決して小さな物じゃないわ」
「勿論、それも自負しているし、誇りにも思ってる。今回の事は、これからの自信に繋がるかなって」
 もっとも、同じ様な大逆転劇をもう一度やれと言われても、自信は無いですが。
「そして……。これでようやく、あの時の約束も果たしてもらえるかな?」
「思えばわたしは今、ようやく七年前の約束に手が届く場所へ立っているんだよね……」
 それは常に目指していながらも、届く日が来るとは思わなかった高み。
 小さなエージェンシーの娘として生まれた運命に飲み込まれるがままにメイドの道を志したわたしが、初めて自分で決めた目標。
 約束を信じ続けてくれた大切な人の為、そして自分の為に。
(…………)
「でも……ごめん、ルフィーナ。やっぱり、ドランビュイへは一緒に行けそうもない」
 ……しかし、わたしは未だに心の中で燻る迷いを振り切ると、静かにそう告げた。
「どうして?私との約束を守る為に、コンテストへ出場してくれたんじゃなかったの?」
「勿論、その気持ちはずっと持っていたし、実際に優勝した夜まではそのつもりだった。……だけど、わたしがルフィーナと一緒に旅立った後で、自分に
代わってエージェンシーを任せようと思っていた弟子にその事を話したら、泣きながら出て行っちゃってね」
「トレハちゃんが?」
「ホントに世話のかかる子よね。コンテストに優勝して一人前になったかと思えば、とんだ見込み違いだったみたい」
 そう言って、溜息混じりに肩を竦めて見せるわたし。
「…………」
「それでね、腹を立てたり心配したり、そしてあの子と出逢ってから今までの事を思い返していくうちに気付いてしまったの。……どうやら今のわたしは、
やっぱりメイドじゃなくて、エージェンシーのマスターなんだって」
 そして、わたしは自虐気味な笑みを浮かべながら、ルフィーナに本音を告白した。
 今までは、心のどこかでメイド復帰への想いが確かに残っていたんだけど、あの子に打ち砕かれてしまったみたいである。
「……そう。でも多分、そう言ってくるんじゃないかって予感はしてた。トレハちゃんを助ける為に全てを台無しにする覚悟で舞台へ飛び込んだ、貴女の姿を見た時にね」
 すると、自分の予想とは裏腹に、ルフィーナは落胆も怒りも見せること無く、新たに注いだ祝杯のグラスを揺らせながら、穏やかな口調で返してくる。
「やっぱり、バレバレだった……?」
「これでも私は、メイフェルの事を誰よりも良く知っているつもりだから。あなたが本当はマスターに向いているのも、とっくの昔に気付いていたわ」
「え?どうして?」
「……だって、メイフェルと過ごした学生時代、ずっとわたしを守ってくれていたじゃない?先生に命じられて案内役を務めるだけじゃなく、なかなか庶民学校に馴染めなかった私を常に気にかけてくれて、そして快く思っていなかった生徒には説得したり、時には喧嘩をしたりしてまで……ね。男の子三人と
やり合った時に出来た脇腹の傷痕は、まだ残っているのかしら?」
「うわ、気付いてたの……?」
 あの時の喧嘩は誰も見ていなかったハズだし、口止めもしたはずなのに。
「…………」
(……ああ、約束の契りを交わした時か)
 心当たりと言うには、あまりにも他言出来ない想い出だけど。
「だから、メイフェルは誰かに仕えるよりも、本当はその細くて温かい腕で守る人なんだと、その時から知っていたわ。……そして、私はそんな貴女だからこそ心惹かれたんだけど、ずっと一緒に居られる方法は自分の従者しか思い付かなかっただけ」
 それから、今度はルフィーナの方が自虐気味にそう告げると、二杯目の祝杯を一気に飲み干し、空いたグラスをテーブルの上へと静かに置いた。
「ルフィーナ……」
「まぁ、未練が無いと言えば嘘になってしまうけど……仕方がないわね。それが大切な初恋の人の選んだ道ならば、出来る限りの笑顔で見送るのが、
本当の愛ってものでしょうし」
 その後で、「さすがにわたしも、一国の姫としてメイフェルと駆け落ちまでは考えられないし」と、首を左右に振りながら続けたルフィーナ。
「へ?初恋の人?わたしが?」
「あら、気付いてなかったの?」
「いや……初耳だってば」
 ……ああでも、だからルフィーナは学生時代に色々とわたしや自分の「初めて」にこだわっていたのか。
 トレハにはナイショだけど、強く迫られたのに負けて、ファースト・キスもあげちゃったしね。
「もう……メイフェルがそんな鈍感だから、トレハちゃんも泣きながら出て行っちゃうのよ……まったく」
 すると、そんなわたしへお姫様は溜息混じりに吐き捨てると、テーブルの上のボトルを再び手に取り、自分のグラスへ三杯目をなみなみと注いでいく。
 ……というか、さっきからお姫様に手酌させているなんて、ゴードンさんやタレット師から後で怒られそうだけど、何だか手を出せる雰囲気でも無くなってきていた。
「えっと、面目次第もございません……」
 そこで、わたしは自分のグラスを空にしたまま、ただ恐縮するしかなかったものの……。
「……まぁ、いいわ。これでロデレールを失業させずに済んだみたいだし」
 しかし、それからおかわりを早速一口含んだ後で、そう続けてくるルフィーナ。
「ロデレールさんが?」
「ええ。退職願を出していたのは前に言ったけど、それを取り消してお仕事を続けたいんですって。ロデレールも長年務めてくれた功労者だから、悪いようには出来ないと思っていたけれど、そういう事なら現役続行をしてもらうとするわ。ちょうど、傷心旅行にも出かけたいでしょうし、似たもの同士になっちゃったしね?」
「あ、あはは……。なるほど、ロデレールさんもご愁傷様……か」
 最後にチクリと刺してきたお姫様の恨み節も痛いけど、王宮メイド時代に同じく宮殿勤務の財務役人だった父を射止めたうちの母と違って、ロデレールさんの方は実を結ばなかったみたいね。
 つくづく、Sランクのメイドというのは因果な職業である。
「……だから、メイフェルは私の事なんて気にせず、自分の選んだ道を歩んで。二次審査の前は弱気な事を言っちゃったけど、私も二人が見せてくれた様に、ライオネル王国の姫として故国の為にきっと強くなってみせるから」
「ありがとう、ルフィーナ。進む道は違うけど、お互いに頑張りましょ?それに、これからもわたしに何か出来る事があれば、何だって協力するし」
 たとえ、お互いの境遇や関係が変わろうとも、わたしとルフィーナの間に結ばれたメイドとお姫様の絆は、決して消えたりしないのだから。
「ふーん……それじゃ早速一つ、お願いしようかしら?」
「え?いきなり?」
「……そう。こうなったら、今日はとことん付き合いなさいよ?貴女の奢りでね」
 そして、ルフィーナはそう命じると、わたしの前へまだ半分以上残っている、祝杯だかやけ酒だか分からなくなったボトルの口を差し出してきた。
「あはは……御意にてございます、お姫様……」
 これで明日は仲良く二日酔い……かな?

                    *

「…………」
 そんなわけで、結局はロデレールさんに譲る形で元鞘に収まってしまったんだけど、やっぱりルフィーナの従者に相応しいのはわたしじゃなくて、あの人だったってコトなのかな?
「私としては、別にトレハを置いて行かれても、一向に構いませんでしたけど?」
「あはは。言うわね、スクラ……。でも、あの子が出て行った後で色々考えているとね、わたしがドランビュイでエージェンシーの状況やあなた達の事を
忘れて、今更メイド稼業に集中出来る自信が無かったのよ」
 そこで、妹を奪い返すチャンスを逃して残念がる正直なスクラに、回想中から引き続いてぼんやりと天井を仰ぎながらそう答えるわたし。
「ついでに、ラトゥーレお嬢様も寂しがるかもしれませんね」
「……それと、もう一つ。あの時、トレハとするべき話はまだ終わってなかったのよ」
 それから、わたしはそんな言葉で締めくくると席を立ち、立てかけてあったコートを手に取った。
「もう、お出かけですか?」
「ええ、あまりここでのんびりしている時間なんて無かったんだった」
 早速、本日最初の契約交渉が待っているから。
「では、いってらっしゃいませ」
「また、帰りが遅くなってしまうかもしれないから、後は頼むわね、スクラ?」
 ……ついでに、これ以上ここへ座っていると、また寂しくなってしまいそうだし。
「…………」

                    *

「は〜っ、これでようやく今日の外回りが終了ね……」
 やがて、すっかり日も傾き始めた頃、わたしは噴水広場を通りかかった所でふらりと立ち寄ると、いつものベンチへ腰掛けて、オレンジ色の空模様を
眺めながら小休止していた。
「やれやれ……朝食も食べずに出かけて、あっという間に夕暮れ時か……」
 タレット師に仕込み始めてもらっているメイシアの料理の腕もめきめきと上がってきているのに、最近は取引先との会食に誘われる機会が増えて、
食べられる機会の方が減っているというのは、待遇が良くなっている反面で、何とも皮肉な話ではある。
「ふぅ……しかも、そういう人達に限って、あの子を雇いたがるんだもんなぁ……」
 思わず愚痴の一つもこぼしながら、今自分が腰掛けているベンチへ視線を向けるわたし。
 ここは今から約三ヶ月前、その不在ながら引く手数多になった少女と出逢った場所だった。
「あんたが戻ってこないお陰で、いつまで経っても落ち着かないわよ、わたしは……」
「……えっと、それはゴメンなさい、マスター……」
 そこで、思わず溜息混じりにぼやいたわたしの背後から、弱々しくも懐かしさを感じる声が聞こえてくる。
「…………」
 勿論、わたしにとって絶対に聞き間違える事の無い声だった。
「あの、やっぱり……怒ってますよね?」
「違うとでも思ってる?コンテストに優勝したあんたが居なくなったお陰で、どれだけ帳尻合わせに頭を悩まされたか。……それに、一国の王女様を振る
羽目にもなったし」
 それから、恐る恐る尋ねてくるトレハに、わたしは振り返らないまま素っ気無く肯定してやる。
「ご、ゴメンなさい……」
「それで、仕事を放り出して一ヶ月あまりもどうして隠れていたの?」
「あ、あの、実は……」
「あれからずっと、スクラの所へ戻っていたんでしょ?そこまでは知っているわ」
 一応、ジャックを使って調査してもらったし、そもそもあの姉バカを絵に描いた様なスクラが、行方不明の妹を心配する素振を見せなかった時点で、予測は十分に出来るというもので。
「うう……っ」
 ただ、トレハ本人にも考えるところがあるのだろうし、わたしにも負い目があったから、自発的に戻ってくるまでは知らない顔をしていただけの話である。
「そろそろ戻らきゃ……とは思っていたんですけど、なかなか踏ん切りがつかなくて」
「何かをわたしに主張したくて、姿をくらませたんでしょ?迷惑な話だけど」
「…………」
「まぁいいわ。それを問いただす前に、あの夜の話の続きをしておきましょうか」
 そこで言葉に詰まるトレハへ、わたしは一方的にそう切り出した。
「続き、ですか?」
「ええ。あなたに支払う成功報酬の話よ。それを尋ねる前に飛び出されてしまったけど、エージェンシーとしては有耶無耶にしておくワケにはいかないもの」
 別に法律で定められている訳じゃないけれど、この業界では当たり前に支払われている慣習だし、何よりわたしの気が済まない。
 ただ……。
「……本来は、優勝賞金の二割程度が相場なんだけど、実はリースリングへの借金の返済と、お世話になった人達への謝礼金、そして参加費を工面する為に質入れした”これ”を取り戻したら、殆ど無くなっちゃってね?」
 そう言って、わたしは苦笑いと共に、相変らず背後で立ちすくんでいるトレハへ右手を掲げ、薬指に嵌めているガーネットの指輪を見せた。
「それって、マスターが大切にしていたという、ご両親から頂いた品ですよね?」
「ええ、わたしの一番の宝物。ボンペイさんがコンテスト終了まで売りに出さなかったお陰で、こうして取り戻せたの」
 その代わり、金利は格安と言いながら、しっかりと取られたけど。
「……だから、出来れば成功報酬は現金以外の何かだとありがたい……かな」
 いやまぁ、虫が良すぎる言い分なのは自覚してるんだけど。
「何でもいいんですか?」
「わたしに出来る事ならね。とりあえず、欲しい物があるなら言ってみて」
 そして、トレハならささやかな願いで済ませてくれるだろうという期待感を持っている自分がちょっと情けなくなりながら、わたしは頷いてみせる。
「……ならば、私はマスターが今嵌められている、その指輪が欲しいです」
 すると、トレハは特に考える間も置かず、躊躇いの無い口調ではっきりとわたしにそう告げた。
「指輪って……この指輪?」
「ええ。マスターが一番大切にされている、その指輪を下さい」
 そんな、予想もしていなかった要求に動揺を隠せないまま、努めて冷静な声で確認するわたしへ、トレハは断固とした口調で改めて指定してくる。
「…………」
(まいったわね、こりゃ……)
 でも、本来支払うべき300万マテリアの報酬を、こちらの都合で別の形にしてもらおうとしている弱みが確かにあるし。
「えっと、これと同等以上の価値の指輪じゃダメ?何なら、トレハの誕生石で作ってあげるけど」
「ダメです。私は宝石が欲しいワケじゃありませんから」
 う〜〜っ。
「……分かったわよ。なら、これはトレハに預けるわ」
 それから、トレハのトドメの言葉でとうとう折れたわたしはそう告げると、彼女の方へ右手を差し出した。
「ほら、自分で取って持っていきなさい?」
「ありがとうございます!一生大切にしますから」
「ああそれと、指輪を受け取った以上は、もう二度と勝手に居なくならないでよ?」
 やがて、トレハの両手がわたしの右手に触れると、ようやく後ろを振り返って念を押すわたし。
 ……その視線の先には、久々となる天使の笑みが舞い戻ってきていた。
「はい♪約束します」
「…………?」
「それで……その、私とも約束の“契り”を結びませんか?」
 しかし、指輪を抜き取った後も、固定する為に繋いだ左手を一向に離さないトレハにきょとんとしていると、今度は躊躇いがちにそんな提案を向けられてしまう。
「……別にいいけど、ルフィーナと契りを交わした約束は、結局反故にしちゃったしなぁ」
「はぁ……メイフェルさん、姫様から鈍感だって怒られませんでしたか?」
 すると、空いた右手でわたしの前髪をかき上げながら、溜息混じりにそう告げてくるトレハ。
「うるさいわね……それで、契りってどんなコトをするのよ?」
「……やっぱり、こういう時の約束の仕方は、これしか無いと思います」
 そして、トレハは悪戯っぽくも照れた笑みを浮かべてそう締めくくると、わたしの頬を両手で添えて自分の顔を近付け、そのままゆっくりと唇を重ね合わせてきた。
「…………」
 それは、高らかに鳴らしたはじまりの鐘。
 ようやく見つけた自分の旅路と、愛すべき仲間達が揃った、新生エトレッド・エージェンシーの幕開けとなる瞬間だった。

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