れるお姫様とエトランジェ Phase-6 その3


眠れるお姫様とエトランジェ Phase-6:『落下流水』

6-9:赤い糸の行方。

「…では、今日はこれまで。まだまだ先は長いんだから、無理なペースで頑張って体調を崩さない様にね?」
 やがてチャイムの音と共にショートホームルームの時間の終わりを知らせると、早瀬先生がやや口早で忠告を交えた後で、今日の授業の終わりを告げた。
「起立、礼〜!」
(何となく、そういう台詞は死亡フラグと思えてしまうのは、毒されてる証拠なのかな…?)
 そして、日直の最後の締めに従って立ち上がって礼をしながら、そんな事をぼんやりと考えてしまうわたし。
 勿論それ以前に、ゲーム脳じゃなきゃ死亡フラグなんて言葉は使わないとツッコミが入ればそれまでなんだけど。
 …とまぁ、それはいいとして。
(えっと、柚奈を探しに行かなきゃいけないんだっけ?)
 何か、茜にはっきりと返事をしていない上に「よ〜い、ドン」がある訳じゃないだけに、何だか最初の一歩が踏み出しにくいのは確かだけど…。
(まぁ、でも…行くなら急いだ方がいいかな?)
 とりあえず、柚奈は何処かに隠れるって言ってたけど、今から全力で8組に行けば、その前に追いつける様な気もしないでも無いし。
「…んじゃ、とっとと行きますか」
 という訳で、わたしは礼の後で一旦着席せずに頭の中で一度考えを整理し終えると、机の横のフックにかけた鞄を素早く取って駆け出そうとした。
「あ、ちょっとみゆみゆ〜、今日は掃除当番だよ?」
「え……?」
 …しかし、そこから数歩進んだ所で突然背後から柚月に呼び止められ、慌てて急ブレーキを踏む羽目になってしまうわたし。
「あ、そ、そうだっけ?」
「なに、今日のみゆみゆは急ぎの用事があるの?だったら、別の日に代えてあげてもいいけど…」
「うっ、ええと…」
 そこで、どうしたものかと悩んでしまうわたしなものの、そのすぐ後ろでは茜の奴がニヤニヤしながら見ているのに気付く。
「…やるわよ。ちゃんとやります。ちょっとド忘れしてただけだから」
 何だか、その顔が妙に癪に触ってしまったわたしは溜息混じりにそれだけ答えると、後は無言ですたすたと戻って、再び鞄を自分の席のフックに掛けた。
 急ぎたいのはやまやまだけど、ここで掃除をサボってまで飛び出すのは、どうにもばつが悪い。
「お、殊勝な心がけ。んじゃお掃除頑張ってね、みゆ?」
「茜こそ、しっかりと練習しなさいよ?まだもう一回は大会に出るんでしょ?」
 そして、ワザとらしくわたしの肩を叩きながら笑みを見せる茜に、同じくぽんぽんと肩を叩き返してやるわたし。
 …とまぁ、端から見ると仲の良い親友同士のやり取りに見えるだろうけど、一瞬お互いの目線の間でバチバチっと火花が飛び散った様な気がしたりして。
「それじゃ、お先〜」
「…はいはい。んじゃま、わたしもとっとと片付けてしまいましょうかね」
「それじゃ、みゆみゆは前から掃き掃除お願いね〜?」
「へいへい…」
 いずれにしても、掃除当番を済まさない事には前に進まない。わたしは気持ちを切り替えると、床掃き用のほうきを用具入れから取り出すと、指示通りに掃き掃除を開始していく。
「…………」
「…………」
(…というか…)
 割と今日は急いでるつもりなのに、こういう時に限って妙に長く感じてしまうのはどうしてだろう?
「…そう言えば、もう一ヶ月になるのね〜」
「ん?何が?」
 それからしばらく無言で掃除が続いた後で、ちりとりを持ってやってきた柚月が、わたしが掃き取ったゴミを受け取りながらそんな事を呟く。
「もちろん、桜庭さんが来なくなってだよ。みゆみゆは、いつまで意地を張ってるつもりなのかな?」
「い、意地を張るって…」
「違うの〜?」
 そして、意地を張ってると指摘されて思わずドキっとしてしまうわたしに、目線をわたしのほうきの先へ集中させたまま、更に追い打ちをかけてくる柚月。
「別に、意地なんて張ってる訳じゃなくて…その、今のままでいいのか良く分からないから、とりあえずそのままにしてるだけで」
「でも、この前の中間テストで桜庭さんの成績、随分下がってたじゃない?まさか、私が桜庭さんの順位を上回る日が来るなんて思わなかったよ〜」
「へぇ、そうなんだ…って、ええっ?柚月、もしかして50番以内だったの?」
「えへへ。科目の少ない中間テストだけは得意なんだ、私〜♪」
 そこで、思わず目を見開いてしゃがみ込む柚月の顔を見据えるわたしに、照れの混じった上目遣いが返ってきた。
「はぇ〜っ、流石はクラス委員だね…」
 同じ組に再編成されただけに、成績も似たようなものかと思えば…恐るべし。
「…でも、みゆみゆとはお友達になったから知ってると思ったけど、結局自分と桜庭さんの成績しかチェックしてなかったんだ?」
「あーいや…まぁその…今は人よりも自分の成績を伸ばす事の方で必死なんで…」
 ともあれ、柚月に対してまったく反論の余地がないわたしは、気まずさを誤魔化す様に視線を逸らせながら言い訳してみせる。
「それでも、桜庭さんのだけはちゃんと見てるんでしょ?」
「ま、まぁ…そりゃ、一種の義務みたいなもんだし。そもそも、今回は少なくとも半分は柚奈の為を思ってした事であって、その効果は確認しておかないと…ねぇ?」
 …何か、自分で言っててえらく後付けっぽい理由だけど。
「ふーん…だけど多分、桜庭さんはみゆみゆ分が切れちゃったんだと思うよ?」
 すると、柚月はわたしの言い訳を信じるわけでも疑うわけでも無い、強いて言えば興味の無さそうな口調で受けると、泳ぎ続けるわたしの視線を固定させる様にじっと見据えてくる。
「み、みゆみゆ分…?」
「そ、みゆみゆ分。一ヶ月前までは毎日補給してたじゃない?それが、いきなり供給ストップしたら、あっと言う間にエネルギー切れになっちゃうよ?」
「みゆみゆ分、ねぇ…」
 だけど、わたしとしても元々こんなにきっぱりと関係を絶ってしまうつもりは無かったんだけどね。
 お昼を一緒に食べたりとか、帰りに途中まで一緒に帰る位なら…って思ってたのに、完全に音沙汰を断ってしまったのは柚奈の方からだし。
「だから、そろそろ補給させてあげたらいいと思うな〜?」
「…それで、また元気になるかな?」
「その答えは〜、みゆみゆが一番良く知ってるんじゃない?」
 何だか居心地の悪さを感じながら遠慮がちにそう尋ねるわたしに、柚月はまるで天使の様な笑みを浮かべてそう宣った。

         *

「さて、掃除も終わってこれで改めてフリーになった訳だけど…」
 やがて、掃除当番のお勤めを終えて教室を出た後で時刻を確認すると、現在は午後4時を回った辺り。茜が部活を終えて出てくるのは大抵午後6時頃だから、まだ2時間近くある。
「ふむ。まだ慌てる様な時間じゃない…なんてね」
 ちょっと、一度言ってみたかった台詞だったりして。
「…ほほう、みゆも受験生というのに、相変らずその道まっしぐらみたいね?」
「うわっ、綾香……っ?!」
 そこで、不意に背後から返ってきたツッコミに驚いて振り返ると、そこには今や懐かしさすら感じる去年のクラスメートが、丸眼鏡をキラリと光らせ、更に口元をニヤリと歪ませながら立っていた。
 柚奈と同じく今年度から8組に編入されたこの綾香は、わたしと同じく勉強時間よりも趣味の時間に情熱を燃やすオタク少女なのに、何故か成績は常に上位にランクしているのが何とも不思議というか、元々の頭の中身が違いすぎてるのかもしれないというか…。
 …まぁ、それはともかく。
「い、いいいつの間に?!」
 よりによって、一番聞かれたくない独り言を…っ。
「久しぶりね、みゆ。…んで、何が慌てる様な時間じゃないって?」
「い、いや、別に…」
「まったく、去年はあんなに懇意の仲になったと言うのに、クラスが変わった途端に全然顔を見せないじゃない。友達甲斐が無いったらありゃしない」
 そう言うと、大袈裟に肩を竦めながら、お団子頭を左右に振って見せる綾香。
「お生憎様。そう気軽に8組へ顔を出せますかっての」
 あそこは同じ学年ながらも別空間というか、部外者が近寄り難いクラスのランキングでぶっちぎりの1位なのに。
「そう?私も最初は息苦しい所へ入れられたって思ったけど、入ってみれば案外そうでもないわよ?…まぁ、担任がちょっとアレな雰囲気だから先入観を持たれてるってのもあるだろうけど」
「でも…」
「それに、ちょっと前まで柚奈が遅刻の常習犯としてよく怒られてたんだから、たまにはみゆの方から出向いてやるってのも優しさじゃないの?」
「う……っ」
 しかし、わたしの反論もすぐにぐっさりと痛い所を突かれて、一歩たじろいでしまうわたし。
「そりゃ、柚奈の方が好きでやってる事だけど、みゆだって何だかんだで受け入れてたんだから」
「…あのさ、もしかしてワザワザわたしの胸を抉りにでも来たの?」
 だとしたら、なんて有り難い友人なんだか。
「あーら、みゆの胸に抉れる部分なんてあったの?どれどれ…」
「わ、悪かったわねぇ…っ」
 すると、イヤらしい手つきで両手をわきわきとして見せながら切り返してくる綾香に、思わず手で胸元を隠してしまうわたし。
「んで、少しは大きくなったのかしら?」
「な、なったわよ…1センチだけ」
「なんだ、クラスが変わっても散々みんなのオモチャにされてるだろうから、少し位は育ってるのかと思えば」
「どういう根拠よ、それはっっ」
 百歩譲って、去年と同じくオモチャにされかけてるってのは否定しないけど。
「まぁまぁ、それは置いておくとして。結局何が慌てる様な時間じゃないの?」
「いや、別に…ちょっと言ってみただけだから」
 …というか、友達ならさっさと忘れてください。
「そう言えば、今日のHRの後で柚奈が慌てて教室を出て行ったけど、もしかして関係アリ?」
「あ、そ、そうなんだ…?」
 やっぱり、柚奈の奴は茜の申し出を受けちゃったか。
「んで、わたしゃてっきり、とうとう禁断症状が出てみゆの所へでも駆け出して行ったのかと思えば、そうでも無いみたいね?」
「…見ての通りよ。それで、何処に行ったか心当たりは無い?」
「さぁて、普段はあまり一人でウロウロしない子だからね。ここ最近も教室に閉じこもってたし」
「…そっかぁ…」
 確かに、わたしもあの子が一人で行きそうな場所なんて見当がつかないんだよね。
「なに、ようやく自分から会いにいってあげる気になったの?」
「えっと…ま、まぁそんなトコ…かな」
「…まったく、遅すぎんのよ、あんたは」
「すみません…」
 でも、柚奈も結構みんなに愛されてるのね…。
 反面で、わたしをフォローしてくれた人が今のところ御影さんだけというのがムカつくんだけど。
「でもまぁ、しらみつぶしに探すのね。隠れんぼってのは、そういうもんでしよ?」
「むぅ…やっぱりそうなるかぁ」
 出来ればこの時期に、余計な体力は使いたくないんだけど。
「ついでに、ちょうどいいエクササイズになるわよ?最近、柚奈の相手をしてないから運動不足なんでしょ?ちょっと太ったみたいだし」
「うぐ……っ、分かる?」
 確かに、実は最近ちょっとお腹の辺りが気になっていたりして…。
 まぁ、学校帰りとかにあまりフラフラしなくなったってのもあるんだけど。
「言っとくけどさ、みゆ。太る時はお腹から、痩せる時は胸からだからね?お腹が出てきたからって慌ててダイエットして、ギリギリのAカップがAAになったって知らないわよ?」
 そして、「まぁ、徹底的に貧乳道を目指すってなら話は別だけど?」と付け加える綾香。
「うう〜っ、余計なお世話だもん…っ」
 大体、ギリギリよりもうちょっと位は余裕ありますっ。
「でもまぁ、そうなったら柚奈にでも揉んでもらって、押し出せばいいのかしらん?」
「ええい、冗談じゃ無いわよっ!」
「え〜?柚奈だったら、喜んで一晩中でもマッサージしてくれるわよ?」
「あほう。そんな事してたら、逆に萎んでしまうわよ…」
 ついでに、絶対胸だけで済むとも思えないし。
「まぁどちらにせよ、ちゃんと見つけてあげなさいな。恋は思い込みの産物って言うけど、それ故に代替は利かないのよ?」
「そんなコト、分かってるわよ…けど、わざわざ忠告ありがとね」
「忠告?ふっふっふっ、実はお邪魔虫の方だったりして♪」
 そして、微妙に癪に障りながらも素直に頭を下げて締めくくるわたしに、元級友は得意げにVサインをして見せた。
「…ああ、やっぱり、そーいう事か」
 最近全く顔を見せなかった級友がいきなりやってきたかと思えば…茜の差し金ですか。
「ほらほら、やっぱり演出ってのも大切じゃない?」
「それも、ハッピーエンドが約束されていれば、だけどね」
 実際、これからどうなるか分からないって時に楽しめる程大物じゃないんですが、わたしゃ。
「幸せってのはね、自ら掴もうとしない者には降りてこないものよ。柚奈も茜も、思い思いの幸せを掴もうと動いた。んで、みゆはどうなの?」
 しかし、そこで皮肉を込めてワザとらしく肩を竦めるわたしに、突然真顔になった綾香が鋭利な言葉でぐっさりと胸を貫いてきた。
「う……っ」
「という事で、私はあんたが主人公のままでいられるのか、それともただの道化としてここで消えてしまうのか、端で見物させてもらうとするわ」
「…くそっ、勝手な事ばかり言ってくれるんだから…」
 それでも、今は動くしかない…か。
「んじゃ、頑張ってね〜♪くれぐれも、柚奈を泣かすんじゃないわよ?」
「お邪魔虫が言う台詞じゃないっての…んじゃ、もう行くからね?」
 わたしは溜息混じりに素っ気無く吐き捨てると、お節介な友人に背を向けて駆け出して行った。
「…………」
(でもつまり、心の中じゃわたしを信じてるって事…かな?)
 だったら、既に一度泣かせてしまったのは、無かった事にしないと…ね。

         *

「…はぁ、はぁ…っ」
「ぜえ、ぜぇ…っ…」
「……はぁ〜っ…もうダメ…ちょっと休憩…」
 やがて、わたしは休み無しで走り続けた足を止めて近くの階段へ座り込むと、汗で湿りを帯びたブラウスの端をつまんでパタパタとさせながら、火照った身体へ涼しい風を送り込み始めた。
「ふぃ〜っ、暑い…」
 普段から運動不足というのもあるけれど、少しばかり運動した程度で汗だくになってしまうのは、やっぱり衣替えも終わって季節が着実に夏へと近づいているって事だろうか。
(う〜っ、水の入ったペットボトルでも用意しておくんだったなぁ…)
 しかも飲む為じゃなくて、頭からだばだば〜っと一気に流して強制冷却する為に。
 こういう時は水泳部員が羨ましくなるものの、その代償が早朝と放課後の厳しい練習だから、その為だけに入部するのは割が合わないけどね。
(いやまぁ、今更入部も何も、3年生になっちゃってるんだけど…)
 …ホントに、大事な時期真っ最中の受験生が何をやってるんだろう。
「まったく、今までは暑苦しいのもお構いなしで勝手に飛び込んで来てた癖に、一体どこに隠れてるんだか…」
 わたしは悪態をつくと、続いて周囲に人がいないのを確認した後で、スカートをうちわの様に扇ぎながら、汗が滲んだ太ももの方へと涼風を送り込む。
 勿論、我が校に通う淑女として非常にはしたないのは分かってるものの、まだ先は長いかもしれないし、お上品にもやってられないというか。
(さて、結構走り回った気がするけど、何時になったかな…?)
 やがて、呼吸が整った後でポケットから携帯を取り出し、時刻を確認すること午後4時50分。綾香と別れた後にひとり開始したマラソン大会は1時間近く経過していた。
「タイムリミットまで、ちょうど中間地点…って所か」
 念の為にまず8組の教室へ赴いた後で、時々通りかかった先生に「廊下を走るな」と注意されながら3年のクラスを回り、特殊教室棟、更に職員室まで覗いたものの、お姫様の姿は見えず。
(まったく…こんな形で、校舎を色々回ってみたいなんて願望が達成されるとはね…)
 出来れば、もっとのんびりと観光したかったんですがね。柚奈の奴と進路も卒業も確定した頃に。
「……はぁ……」
 望まなくても勝手に叶ってた事が、今は随分と遠く感じられる様になってしまっている。
 綾香に指摘された通り、いつまでも一方通行で与えられる事に甘えていたから、余計にその落差を実感させられているのかもしれないけど。
(分かってるわよ、そんな事……)
 手遅れになってないなら、修正すればいいだけでしょ?
 まだ休憩は充分じゃないものの、何だか居心地が悪くなったわたしは、スカートに付着した埃を払いながら立ち上がった。
「さて、校舎内でまだ行ってない場所で、目ぼしい所と言えば…」
 廊下から中が見える教室は大体確認しながら回ったから、後はあの子が居そうな所を絞って見ていくしかないか。
「…………」
(…ってもしかして、闇雲に走り出す前に考えておくべきだった…?)
 しかし、わたしはそこでふと当たり前の事を思い出すと、額から汗の雫が滴り落ちてくる。
 考えたら、柚奈を見つければいいだけなのに、いつの間にか校内を隅々まで走り回って探さなきゃ、なんて固定観念に囚われてしまっていた様な気もする。
「…う〜っ、何なんだかなぁ…」
 そこで、思わず誰かが見てる訳でも無いのに、呆れた口調の独り言を吐き捨てながら、オーバーアクションで肩を竦めて見せるわたし。
 と言っても、時間が限られてるのに能率が悪い自分のお頭にじゃなくて、そんな事は分かっていながらも、身体が勝手に汗だくになるまで走り回る事を求めた理由に対して、だけど。
「…………」
 つまり、一方的な鬼ごっこだと思ってたけど、案外そうでもなかったって事、か。
「はぁ、どっちにしても、これじゃ一種の夢遊病ね…」
 一度、お医者さんにでも相談した方がいいかしらん。
(…ん?お医者さん…?)
 しかし、そこで埒もない思考を振り払おうとした所で、わたしの頭にある単語がピンと浮かぶ。
「…………」
「もしかして、保健室…?」
 そう言えば去年、あそこで宿題を写させてもらう見返りに15分だかお触り放題なんて、今考えたら破廉恥極まり無いイベントがあったっけ。
(まさか柚奈の奴、保健室のベッドにでも潜り込んでいて、わたしが近づいた所を襲いかかってこようとしてるとか…)
 確か、養護教員の先生は事前にお願いしていればベッドの貸切もアリらしいし。
「…………」
 考えれば考えるほどありえる話だけに、だんだんと行くのが嫌になってきたものの、迷ってる暇が無くなってきてるだけに仕方が無い。
(正に、虎穴に入らずんば虎子を得ずって奴?)
 …というか、ウサギがわざわざ虎を探し回ってるなんて、考えたらなんて滑稽なんだろう。

 こんこん

「失礼しまーす…」
 やがて、渋々ながらも駆け足で保健室まで移動した後でノックすると、恐る恐る虎穴へと続く入り口をスライドさせていくわたし。
(いきなり、飛びかかってきたりしないでしょうね…?)
 いつもなら、カウンターパンチの1つでも見舞って返り討ちにしてやるんだけど、今回ばかりはそれも気が引けるし。
「…おう、姫宮ではないか。こんな時間にどうした?」
 しかし、注意深く身構えながら入室したわたしを待っていたのは柚奈ではなく、静まった室内で机の上に肘を立て、足を組んだラフな姿勢のまま視線を向けてくる冴草(さえぐさ)先生だった。
 相変らず見えそうで見えないギリギリのタイトスカートに黒ストッキング、一般常識でも巨乳の部類に入る胸を強調した薄いシャツの上に白衣をだらしなく羽織ってと、今日も随分とリラックスしきった格好で仕事に励んでおられるみたいで。
「冴草先生?いたんですか?」
「あん?養護教員が保健室に居ちゃ悪いのか?」
「あー、いえ…そういうつもりじゃないんですが…」
 ともあれ、予想が外れて思わずポロリとこぼれてしまった間抜けな質問に、冴草先生から不機嫌そうな視線と台詞が返ってくる。
 よく見ると、机の上にはラベルが張られたプラスチック製の色とりどりなファイルが山積みになっているので、書類作業中だったのかもしれない。
(あらら、アテが外れた…?)
 てっきり柚奈の貸し出し中かと思ってたけど、そんな雰囲気でも無さそうだった。
「んで、何の用事だ?仮病でサボりか?」
 そこで、とりあえず苦笑いを浮かべて誤魔化すわたしに、視線を机の前へ戻してペンを走らせながら、素っ気無く言葉を続けてくる冴草先生。
 …どうやら、やはり多忙な時にお邪魔してしまったらしい。
「サボるも何も、もう授業は終わってますってば」
「ん…ああ、もうそんな時間だったか。それじゃ、どうして残ってるんだ?今まで居残り勉強してましたって様子でもなさそうだが?」
「まぁ、そこは色々ありまして…。えっと、一応確認しておきますけど、柚奈は来てませんよね?」
「桜庭?なんだお前ら、放課後の逢引の待ち合わせ場所に選びやがったのか?まったく、神聖な保健室はハレンチスポットじゃないんだぞ」
 今更聞くまでも無さそうなものの、わたしはとりあえず遠慮がちに用件を告げると、冴草先生はぴたりとペンを動かす手を止めて、再び不機嫌そうな顔をこちらに向けてきた。
「違いますっ!…単に、聞いてみただけですっ」
 まったく、格好だけじゃなくて頭の方も相変わらずというか、仮にも教員ともあろう者が、すぐに不健全な方向に繋げないでいただけませんかね。
 …とまぁ、今回はわたしも想定していただけに、あまり強く反論もできないんだけど。
「んじゃ、携帯でも使って本人に尋ねてみたらいいだろう?それが出来なくて校内をウロウロしてるっていうなら、何か後ろめたい事情でもあるのか?」
「う……っ、ど、どうして今までわたしが校舎を走り回っていたと…?」
 しかし、続けて何やら机の引き出しをごそごそと漁りながら続けてくる冴草先生に、わたしはぐっさりと心の痛い所を射抜かれて硬直してしまう。
(何だかしかも、随分と推察が鋭いし…)
 柚月といい綾香といい、どうしてみんな訳知り顔なんだろう…?
「呼吸が乱れている上に、それだけ汗をかいていれば馬鹿でも分かる。ほら、いつまでもそこで突っ立ってないで、入ってこれでも使え」
 すると冴草先生は素っ気無くわたしにそう告げると、ビニール袋と白い紙に包まれた新品のタオルを投げ渡してきた。 
「…すみません…」
 わたしはそれを両手で受け取ると、促されるままに戸を閉めて中へ入っていく。
 ちなみに、中央に巻かれたの紙の上には商店街の名前と共に”粗品”の文字が書かれていた。
「あと、茶を淹れてやるから水分の補給もしとけ。ただし、冷たいのはダメだ。汗を拭かずにフラフラしたり、冷たい物をみだりに摂取していると風邪を引くからな。…まったく、受験生の癖に少しは健康管理に気を使おうって意識は無いのか?」
 そして、一方的に養護教員らしい台詞を続けて立ち上がると、のそのそと給湯器の前へと移動していく冴草先生。
「すいません…こんなに走り回るなら、やっぱり着替えてた方が良かったですかね?」
「あん?放課後の校舎内をひとり体操服姿で走り回る3年生か?受験ノイローゼの疑いで、カウンセリング室行きだな」
「あう…」
 わたしも今ちょっと想像して、馬鹿な事を言ったもんだと後悔したりして。
「…まぁいい。それで、一体どういう事情で桜庭を探して走り回ってるんだ?少し位なら相談に乗ってやるから話してみろ?」
 それから、促されるままに椅子へ座って開封したタオルで顔を拭くわたしの前に、冴草先生は緑茶の注がれた湯のみを差し出しながら尋ねてくる。
「で、でも……あの、話せばそれなりに長くなりますよ?」
「ちょうど一息付こうと思っていた所だし、これも私の仕事のうちだ。いいからさっさと話せ」
「…………」
 先生の物言いは仕事の邪魔をされて不機嫌な様で、同時にわたしを追い出すどころか、有無を言わせぬ押しの強さで逃げ場も塞いでいる辺り、自分のテリトリーにやって来た以上はタダで帰すつもりは無いらしい。
「んじゃ、せっかくなのでちょっとだけ…」
「うむ」
 そこで仕方が無く…というか、正直ちょっとその心遣いが嬉しかったわたしは観念すると、出来るだけ要点を絞って手短に説明し始めた。

         *

「…なるほどな。姫宮がいらんお節介を続けた所為で、桜庭に愛想を尽かされかけてると。今までの愛情が強すぎただけに、その反動は大きいかもな」
「お節介と言われても困りますけどね…まったく。わたしは柚奈の将来を思ってのつもりだったのに、どうしてこんな事になったのやら…」
 しかも、柚奈本人のみならず、周囲の人間からも一方的に悪者にされて、かろうじて一定の理解を示してくれたのは御影さん位ときたもんだ。
「ふん。見えもしない将来(さき)の話なんざクソ食らえだよ。世の中には良い後悔と悪い後悔があるって知ってたか?」
「…自分で選んだ道を進んだ末の後悔なら、悔いは残らない…でしたっけ?」
 そう。それは柚奈が前から言っていた台詞。
 しかし結果論で言ってしまえば、わたしはそれを信じてやれなかった。
(…………)
 もしかして、それこそがわたしの犯した罪…?
「いいじゃないか。後でたっぷりと後悔させてやれ。それでもその時にお前さんが側にいるなら、桜庭はきっと幸せだろう」
「…そーいうもんですか?」
「そういうもんだ。無論、お前さん自身も同じでなければ意味は無いがな。いずれにせよ、他人が勝手に決め付ける幸福ほど不幸なモノはない」
「…………」
「…どうも、ごちそうさまです」
 そんな冴草先生の言葉に返す言葉が見つからなかったわたしは、ぐいっと湯のみを一気に煽ってお盆の上へ返すと、ごちそうさまを告げて立ち上がった。
 御影さんにも似た様な事を言われたけど、冴草先生の方が表現がストレートな分、心にぐさりと突き刺さってくるというか。
「ん?もう行くのか?おかわりもあるぞ?」
「まぁ本音を言えば、もうちょっと休んで行きたいですけど…タイムアップも近いですし」
 居心地が悪くなったのがあるとしても、ふと室内の時計の針を確認してみたら既に5時20分を回っている事だし、いずれにしても長居は無用である。
「ま、多少なりとも意思があるのなら、貫いて成し遂げろ。…それと、お前さんはもう少し桜庭に対して傲慢になった方がいい。据え膳食わぬは男の恥と、昔から言うだろう?」
「…わたし、女ですけど?」
「おお、これは失敬」
 そこでジト目混じりの冷めたツッコミを向けるわたしに、ぺしっと自分のおでこを叩く冴草先生。
「いずれにしても、求める愛の形は人によって様々だよ。ただひたすら優しくされたい者もいれば、虐待されて存在感を実感出来る者もいる」
「う〜ん、出来れば後者の方はするのもされるのも遠慮したいですけどね」
 相手を拘束したりされる事に喜びを感じるってのは確かに聞いた事があるけど、生憎わたしはそういうのは好きじゃないし。
「単なるものの例えだ。だが桜庭はひたすら愛情を押し付けながらも、お前さんに尽くしたくて、そして無くてはならない存在になりたくて、いつも何を望まれているのかを探していた。…それで、姫宮の方はどうだ?桜庭がお前さんに何を求めてるのか、知っているのか?」
「そ、それは…」
「すぐに答えられないか?それが理解出来ていないのに、勝手な思い込みで日常を変えてしまったのならば、根本的に間違っていた事になるな」
「…う…っ…」
 それから、口篭もるわたしへ矢継ぎ早に追い討ちをかけてくる冴草先生に、またもや自分の胸が容赦なく抉られていく。
(ああもう、さっきからみんなして何なのよぉ…)
 柚奈争奪レースというより、まるでわたしの断罪ツアーになっちゃってるんですけど…。
「ま、氷室の言い分も確かに一理はある。だが、それは担任教師としての立場の話だ。お前さんまで彼女と同じ立場に立つ必要は無い。違うか?」
「……はい……」
 しかし、それも冴草先生によって遂にトドメの一撃を決められ、わたしは項垂れながら呟くしかなかった。
「結局、わたしは出すぎたマネをしちゃったって事ですか…?」
「別にそこまで卑下する必要もないがな。互いの愛が強すぎる故の不幸と言えなくもない」
「…それ、御影さんにも言われましたよ」
 というか、今の所はそれが唯一のわたしへのフォローだし。
「ほほう。んじゃ、心当たりはあるのか?」
「さぁ、どうなんでしょーね」
 改めて尋ねられても、そう答えるかない。
 そこでわたしは態度で示さんとばかり、大袈裟に首を振りながら肩を竦めて見せた。
「よいよい。姫宮ぐらいの年頃は素直になれなくて当たり前だ。ただ、問題は…」
「すれ違いも、取り返しのつく範囲で…って所ですか?」
「ふん。分かってるなら、とっとと行け。手遅れにならないうちにな」
「へいへい…失礼しますよ」
 そして、話は終わりだとばかりに手を縦に振って追い出す仕草を見せる冴草先生へ、わたしは一度だけ深くおじぎをして保健室を出た。

 ぴしゃり

「ん〜、でも手遅れにならないうちに何とかしたくても、また振り出しに戻っちゃったのよねぇ…」
 残り時間も40分程で、そろそろ余裕がなくなってきたというのに、未だにアテは無い。
 ただ、やっぱり見つけられる事を前提にして何処かに隠れているなら、何らか縁のある場所という事になるんだろうけど。
(縁のある場所、ねぇ…)
 他にどんな所があったかな…?
 部活に入らなかった事もあって、あんまり柚奈と放課後に校内でフラフラする事もなかったというか、隙あらば襲ってきそうな年中発情期娘を隣に置いて、人気が少ない様な場所へ好んで足を踏み入れるほど迂闊でもなかったし。
(えっと、去年一緒に茜の特訓を受けたプールの更衣室とか…?)
 いや、あそこは今水泳部が使用中のはず。
 …っても、確か開かずの間の方があるんだっけ?
(いやいやいや…)
 とは言え、あそこに待ち構えてる柚奈の元へ飛び込んでいくというのは、ある意味保健室よりも遥かに危険な気がするんだけど。
「…………」
 まぁ、いいや。一応候補地って事で。
 他には…。
(あと最近だと、茜とお昼を食べてる中庭とか…かな?)
 こっちも何となく、個人的に行きたくは無い場所だけど…。
「……うう、くそっ……」
 しかし、今は躊躇うだけの時間が勿体ないし、思いついた順に行くしかない。
(どっちにしても、暑いけど外へ出る事になりそうね…)
 …まったく、人の気も知らないで手間かけさせてんじゃないわよ、ワガママお嬢様。
 ともあれ、わたしは心の中で悪態をつきながら、靴を履き替えようと下足場の方へと駆け出した。
(文句は後で、お互いにたっぷりとって所かしら?)

6-10:逆インプリンティング。

「はぁ、はぁ、ぜぇ、ぜぇ……っ」
 やがて、校舎を飛び出してからどの位走り回ったかは分からないものの、それから程なくしてわたしは校庭の片隅にある、どこぞの文人が残したらしい記念碑にへたり込んでいた。
 さっきの校舎内マラソンよりは随分とスパンが短いものの、今まで累積した疲労に加えて時間が少ない事もあって手加減無しの全力疾走を続けただけに、先ほど校舎で座り込んだ時とは比べ物にならない疲労感がわたしの身体を蝕んでいき、そろそろ動き回るのも億劫になってきていたりして。
「あーもう、いい加減にしなさいよね…」
 ともあれ、暑さと披露で項垂れた前髪の先からポタポタと汗の雫を落としながら、誰にともなく声に出して呟くわたし。
 甘かった…というか、まさかここまで手がかり無しとは思わなかった。
 まずは中庭へ行ってひと通り見回した後、水泳部の両方の更衣室へと顔を出しても姿は見えず。それから更に、知ってる先生や生徒を見つけては聞き込みもしてみたものの、例によって行動が遅いと怒られる事はあっても、目撃情報は無しのつぶて。
「ったくもう…運動オンチの癖に、今日に限っては完璧に雲隠れしてんじゃないのよぉ…」
 …と、苛立ちを感じながら顔を上げて校舎の時計を確認すると、時刻は5時40分前。空は沈みかけた夕日の赤みがかかってる程度でまだ明るいものの、もう手当たり次第で回ってるスタミナも時間すら尽きかけていた。
 ついでに、保健室で拭き取った汗も再び噴き出して酷い事になってるし、このままじゃ発汗とストレスで顔がニキビだらけにでもなってしまいそう。
「はぁ〜あ……っ、でも、これで目ぼしい所は大体回ったしなぁ…」
 ここまで探して見つからないって事は、やっぱり柚奈の奴、わたしには見つけて欲しくない?
「…………」
 ダメだ。ここで弱気になったら、本当に動けなくなる。
 泣いても笑ってもあと少しなんだから、せめて自分が納得出来るまでの事はやらないと。
(だけど…これで校内で思い当たる所は大体回ったしなぁ…)
 それでも見つからないって事は、何処か見落としてるって事だろうし。
「ふう……っ」
 仕方が無い。時間は無いけど、ここは落ち着いて最初から思い返してみるしかないか。
「…………」
「ん、最初…?」
 しかし、逸る気持ちを抑えながら再開したそんな回想も、始めて10秒も経たないうちにわたしは肝心な事を思い出して顔を上げてしまう。
(あ、そっか…考えたら、わたしと柚奈がよりを戻す場所なんて、端から1つしかないじゃない)
 多少はルール違反だけど、他には無いって位の場所が…。
(…灯台元暗しって言うんだっけ、こういうの?)
 そして思いつくが早いか、わたしは再び立ち上がると校門へ向けて走り出した。

         *

「はぁ、はぁ、はぁ…っ」
 わたしは激しく息を切らせながら、そして走りすぎで笑い始めた股を手で押さえながら、その場所へと駆け込んでいく。
 …思えば、全てはこの場所が始まりだった。
 慌しくも孤独なエトランジェが、眠れるお姫様と出逢った場所。
 食パンこそくわえていなかったものの、ベタな台詞を口走りながらわたしは転校初日からの遅刻を回避する為に前方不注意の全力疾走を続け、そして…。
「…この角で、偶然鉢合わせた柚奈と正面衝突してしまったのよね」
 それまで全く接点が無かったはずのわたしと柚奈の運命の赤い糸は、お互いの身体ごとがんじがらめに交錯してしまった。
「…………」
 だから、ここしかないと思った。絡み合った赤い糸が解けそうになったのなら、それを再び結び付ける場所は、ここしかない。
 きっと、柚奈も同じ気持ちのはず。
「だったんだけど……」
 …しかし、辿り付いた先にいるはずの人影は無かった。
 ここで柚奈がひとり待ってる姿を思い描きながら、残った体力を振り絞ってきたのに。
「外れ、か……」
 これはさすがに脱力というか、凹むかな…。
「あーあ、まいったなぁ…」
 深い溜息と共に、わたしは再びその場に座り込みそうになるのを我慢しながら、曲がり角の壁へと手を付く。
「…………」
 ホントに、縁って不思議なものだとは思う。
 柚奈自身も言ってたけど、1年前にココでぶつかったりしなければ、今頃はひと目惚れされるどころか、知り合いになっていたかどうかすら怪しいんだから。
(それがまさか、あれからずっと付きまとわれることになるとは思ってもいなかったけど)
 わたしの第一印象は、清楚でおしとやかなお嬢様だったのに。
 …いや、それだけじゃなくて、まるで漫画の中に出てくるヒロインというか、驚いた顔を浮かべながらも大和撫子を絵に描いた様な綺麗な顔立ちに、あの時は一瞬見惚れてしまったんだっけ。
「…………」
(……あれ……?)
 しかしそこで、「見惚れてしまった」という言葉が引っ掛かり、回想を中断して現実に戻るわたし。
「まさか、そういう事…?」
 今更思い出したけど、もしかしてわたしが身の危険を感じながらも邪険に出来ずに、曖昧なまま柚奈をズルズルと受け入れてきた本当の理由って…。

 きーんこーんかーんこーん

「う……」
 しかし、何だかわたしの中で結論が出かかった所で、まるでタイミングを見計らったかの様に、校舎の方からチャイムの無常な音が聞こえてくる。
「そろそろ、タイムアップがきたみたいね…」
 改めて携帯を取り出して確認すると、時刻は午後5時50分。つまり、今鳴ったのは部活動中の生徒へ終了を促す予鈴だった。
 一応は残り10分あるものの、アテが無くなった今から戻って探すとしても絶望的だし、そろそろ茜も着替え終わって向かい始めている頃だろう。
 つまり、わたしの負け。ゲームオーバー。
「…はぁ。転校してきて散々振り回されておいて、なんてあっけない終わり方なのかしらね…」
 まったく、何処に隠れていたんだか。
 わたしに見つけて欲しいなら、分かりやすい所に隠れていればいいものを、やっぱり傷付けてしまった挙句に、茜の元へと戻る気になったって事なのかな。
「…………」
(いや……)
 本当にそうなんだろうか…?
 あの子は押し付けになろうとも構わず、わたしに献身的な愛をずっと差し出し続けてきた。
 氷室先生に説得され、柚奈の為を思って実行してしまった今回の件でも、あの子にとってはわたしの為だからと、涙を隠して離れて行ったハズだから。
 だからもし、柚奈が別れる道を覚悟して茜の申し出を受けたとしても、それはきっとわたしの為にであって、心変わりしたからなんかじゃないはず。
「……柚奈……くそっ…」
 わたしは痛みを求めて、握り締めた手と同じく手加減無しで唇をかみ締める。
(ホントに、こんな所で終わりなの…?)
 わたし達を繋ぐ赤い糸は、一度や二度のすれ違い程度で解けてしまう程、脆いモノだったの?
 ”お互いの幸せの為”なんて、陳腐なお題目に目をくらまされて、そして飲み込まれて。
 …そりゃあ、今回はわたしがちょっと先走りすぎたって自覚は少しはあるし、自分勝手な理屈だとも思うけど。
(でも…このままじゃ、お互いに救われなさそうなのよね…)
 わたしの方は当然の報いなんだろうけど…ゴメンね、柚奈…。
「…………」
「……ん?」
 しかし、そこで夕暮れの空へ柚奈の顔を思い浮かべようとふと見上げた時、ここから見える校舎の屋上に、誰かの人影がちらりと見えた様な気がした。
「あ…っ!もしかして…?!」
 声が出るが早いか、わたしは無意識に校舎へ向けて駆け出していた。
(しまった、盲点だった…あそこはお昼、茜に連れられていった場所なのに…)
 わたしが柚奈と来た事は無かったけど、隠れ場所として茜から吹き込まれた可能性は低くない。
 …というか、茜は探す必要は無いんだから、わたしとの知恵比べの為に敢えてあそこへ隠れさせたって事も…。
(くそっ、教室から真っ直ぐ向かってたら2時間どころか、5分もあれば着けた場所じゃない…っ!)
 しかし、今更ゴチャゴチャ考えても仕方がない。
 あとは間に合うか間に合わないか…まぁ、その時はその時ね。
「…………」
(それにしても…何だろ、この不思議な感覚…)
 とはいえ、走りながら冷静に考えてみたら、あそこからだと人影は辛うじて認識出来ても、あれが柚奈だと判別するのは不可能なハズなのに。
 さっきの「盲点だった」も、所詮は正当化させる為の後付け推理でしかない。
 でも、勝手に動き出した足は止まらない。
 だって、わたしの第六感は、確かにあそこにいるのは柚奈だと言ってるから。
 …そして何だか、あの場所から柚奈がわたしを呼んでいる様な気がしたから。
(もしかして、これって逆インプリンティング…?)
 理由はともかく、柚奈がわたしを運命の相手と思い込んでインプリンティングしてしまったのなら、刷り込んだ形になったわたしの方もまた然りって事かな。
 端から見たら馬鹿馬鹿しい理屈なんだろうけど、今はわたしがそれで納得してしまってるのだから仕方がない。
(待ってなさいよ、柚奈……)
 わたしは戻ってきた校庭を真っ直ぐに横切り、全速力で校門から昇降口へ戻ると、手早く上履きに穿き替えて休む間も無く駆け上がっていった。
「はぁ、はぁ……っ」
 血でも吐きそう程に胸が痛いけど…でも、止まらない。
 止まりたくない。
 今までの人生の中でも時々あった、本当にヤバい時にリミッターが外れた力が出ている感覚。
(柚奈…柚奈……っ)
 多分ここで止まったら、これからずっと胸に鈍い痛みを引きずって生きていく事になりそうだから。
「あら姫宮さん、そんなに急いでどう……」
「すみませんっ、急いでいるんでっ!」
 やがて、すれ違った早瀬先生に立ち止まること無く告げると、わたしは急カーブと共に休むこと無く階段を一気に駆け上がっていった。
「はぁ、はぁっ、はぁ……っ」
 そろそろ残り時間が気にならない事も無いものの、確認してる暇すら勿体無い。
 というか、問題は茜が先に辿り着いてるかどうかだけど、いちいち姿を確認しながら走ってもいないので、それも分からないし。
「はぁ、はぁっ、柚奈ぁ…っ」
 ここまで来て…出逢ってから、散々付きまとわれて振り回されて…。
 更に、1年間たっぷりと時間をかけてわたしの心を奪っておいて…。
(今更、お別れして他の人とくっつくですって…?)
 そりゃ茜には悪いとは思うし、客観的に見たらそっちの方がお似合いのカップルでしょうよ。
 でも…柚奈がひと目惚れした相手はわたしなんだから。
 苦労はさせるだろうけど、あの馬鹿が付くほど一途で純心なお姫様を本当に幸せにしてやれるのは、きっとわたしだけなんだから。
 つまり…。
「柚奈は…わたしのモノなんだから…っ!」
「…………っ?!」
「…………?」
 あれ、今追い越した誰かがついつい口から飛び出してしまった叫びに反応した気がするけど…。
(ま、いいか…)
 だからといって振り返って確認するのも何だか気まずいし、余所見してたら足を引っ掛けて転んでしまいそうだし、何より今更ヘンな噂もへったくれもない。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
 それより、この階段を上った先にある扉の向こうに柚奈がいる。
(もし居なかったり、既に手遅れだったりしたら…)
 その時は…諦めるなんて潔い事しないで、約束を反故にして茜から力ずくで奪っちゃおうかしら?
 今度は茜と立場が逆転するかもしれないけど…多分それが綾香の奴が言ってた、主人公の甲斐性ってものだろうし。
(…なんてね)
 どちらにしても、ゴールまであと10メートル。
 9、8、7……。
(…6、5、4…)
 3、2、1……。

 ばんっ

「……っ?!」
「…………」
「いた……」
 ホントにいた。
 最後まで心の片隅にこびり付いていた自分の迷いを振り払う意味も込めて勢い良く開いた、分厚い鉄の扉の向こう。
 最も近かった癖に、いつの間にか最も遠くなってしまっていた、わたしのお姫様が。
「みゆ、ちゃん…?」
「…これで、ギリギリセーフよ。文句ある?」
 そしてわたしがそう宣言した瞬間、校舎の時計塔から午後6時を告げるチャイムが校内へ鳴り響いた。

6-10:まるで双星の如く

「とりあえず、手遅れにはならなかったみたいね…?」
 開けた扉の前に立ったまま、目の前に広がる風景を見回しながら呟きの言葉で結論付けると、えも言えぬ安堵感がわたしの身体を包み込んでいく。
 約6時間ぶりにやってきた屋上は、柚奈の姿を照らす様にオレンジ色の夕焼けが差し込み、全体的に薄暗くなってきているものの、わたしの視界に映る範囲で自分を除いてこの屋上に立っているのは、どうやら柚奈1人だけの様だった。
(つまり、茜との勝負はわたしの勝ちって事、でいいのかな?)
 あの出逢いの曲がり角からここまで、自分の中で随分と高揚していた割にはあまり実感が無いものの、間違いは無さそうである。
「…随分と走り回ったみたいだね、みゆちゃん」
「お陰様でね。人間やれば出来るもんだって実感してるわよ」
「…………」
 …だけど、勝っただの負けただのは、正直どうでも良かった。
 やっと会えた。
 ようやく、再び柚奈の前に立てた。
 夕焼けに照らされた、何処か儚げな柚奈の顔を前に感じているそんな感慨の方が今は遙かに大きく、そして一気にやってくるかと思っていた疲労感も、不思議な事に殆ど感じていない。
「まったく、手間かけさせてくれたわね…これじゃ、明日は筋肉痛確定だわ」
「……うん。明日の時間割に体育がないのが救いかもね」
 それはまるで、実際の期間はほんの1ヶ月そこそこなのに、もう何年も会えなかった様な感覚。
 わたしがそこまで感じているのならば、柚奈も同じ…いや、それ以上なんだろうか?
(あれ……?)
 しかし、ゴールした瞬間から「おめでとー、みゆちゃん♪」とか叫びながら飛び込んで来るかと思っていたのに、柚奈は微笑だけを浮かべてこちらを静かに見つめたまま、その場を動かない。
 …そもそも、今までだとわたしが「明日は筋肉痛だわ」とか言おうものなら、「それじゃ、私が丹念にマッサージしてあげる〜っ♪」と、問答無用で襲いかかってくるハズなのに。
(もしかしてこれが、この1か月で出来てしまった溝…なのかな?)
 まぁ、わたしとしては少し位は自重してくれた方が有り難いんだけど、反応が大人しすぎるのも調子が狂ってしまう。
「…まぁいいわ。これでようやくマトモに話が出来そうだし」
「話…?」
 ともあれ、フェンス際に立つ柚奈の元へゆっくりと近付きながらわたしが会話の続きを切り出すと、歓迎する素振りも逃げる素振りも見せずに立ち尽くしたまま、きょとんとした顔を見せる柚奈。
「だって、最近はこっちからメールしても返事を寄こさなかったじゃない?中間テストの結果が随分悪かったみたいだから、何かあったのかと凄い心配してたってのに」
「…………」
「あんたの事だから、別にサボってたって訳じゃないだろうし、そもそも少しくらいサボった所で、一度にあそこまで落ちるってのも考えにくいしね」
「…………」
「まさか、わたしと距離を置く事になったからって、やる気が無くなったなんて言わないわよね?ましてや、あてつけなんて事は…」
「…………」
「…ちょっと、黙ってないで何か言いなさいよ?」
 何だかいつもと様子が違うと思えば、今度はだんまりですかい。
「…………」
(もしかして、拗ねてる…?)
 そりゃ、ちょっと独りよがりで無神経だったって罪悪感は感じてるけど、辛かったのは柚奈だけじゃなくてわたしだって同じだったんだから、一方的に平謝りってのも何となく面白くはなかった。
 やっぱり柚奈には、わたしの気持ちも分かって欲しいし。
(いっその事、ここはぴしゃりと…)
「…だったら、メールなんてまどろっこしい事しないで、直接私の所へ来て聞けば良かったのに」
「う…っ、だ、だって…」
 そこで、自分の意思をしっかりと伝える為に強気で踏み込もうとした所でカウンターパンチ気味に飛んできた柚奈の反論を受け、思わず進んでいた足を一歩引いてしまうわたし。
「あれから、茜ちゃんはちょくちょく顔を出してくれてたよ?でも、みゆちゃんは結局一度も来てくれなかったよね?」
 そして、追い打ちを受けると同時にわたしが更に一歩後ろへ引いた分、ずいっと柚奈の方から距離を詰めてくる。
「え、えっと…その件は綾香にも言われたけど…」
「けど、何…?」
「…そ、それは、その…」
 だからって、柚奈の前で今更気まずかったとか、自分から近寄る勇気が出なかったからなんて、カッコ悪くて言えなさ過ぎる。
「結局、みゆちゃんにとって私の存在なんてその程度だったって事だよね?それでも、元々は私の勝手なひと目惚れだし、新しいクラスで仲良くなった友達と楽しくしてるみたいだから、みゆちゃんがこのままでいいと思ってるなら…」
「……っ!そんなワケ無いじゃないっ!」
 しかし、柚奈が自分の前で初めて吐いた泣き言に、わたしは右手で振り払う仕草を見せながら、続きの言葉を遮った。
「だったら…だったら、わたし達が出逢った曲がり角であんたを見つけられなかった時に、もう諦めて帰ってたわよっ!…それに、どうでもいいって思ってるなら、あんなに胸が痛む思いをしてまで、氷室先生の話になんか乗らなかったしっ!」
 そりゃ、それなりに楽しくやってたのは否定しないけど…それでも柚奈が涙を隠して立ち去った姿を見てから、わたしは心の底から笑えた事なんて無かったのに。
「氷室先生の…?」
「そうよ!受験生になってもわたしの事しか見えてないこのままじゃ、柚奈がダメになってしまうって!今は良くても後で必ず後悔してしまうから、もしわたしが本当に柚奈の事を大切に思ってるなら、せめて受験が終わるまででも、心を鬼にして突き放してちょうだいって…」
「…………」
「でも、言われた通りにしばらく距離を空けてみたら、逆に見る影も無くなってしまって…お陰で、2度も睨まれちゃったじゃないのよ?」
 勿論、柚奈にとっては単なる言いがかりでしかないものの、それでも堰を切ったように捲し立て続ける自分の口から勝手に出てしまうものは仕方が無い。
 わたしだってそれなりに辛い想いはしてきたのに、今まで一方的に悪者にされてきた鬱憤がここに来て爆発してるのかもしれないけど。
「つまり…みゆちゃんはわたしの気持ちも知らずに、他人の言葉を真に受けて…」
「それもっ!全てはあんたの為を思って…」

 ぱんっっ

「……っっ」
 しかし、その反論は最後まで言い終わる前に、乾いた音を響かせながら、不意にわたしの左頬へ叩き込まれた強い衝撃で止められてしまった。
「みゆちゃんの…ばか…」
 そして、叩いた後でわたしの頬に密着させたままの右手をわなわなと震わせながら、睨む柚奈の目からじわりと涙が滲んでいく。
「ゆい…な…?」
「もう…あんな思いはしたくなかったのに…またあの時みたいに捨てられるんじゃないかって…だったらいっその事、みゆちゃんと同じ場所に立てればって…」
「ゆ、柚奈、まさかあんた…?」
 つまり、成績が落ちたんじゃなくて、わたしに「あんたとは住む世界が違うから」なんて言わせない為にワザと…。
「あ、あんた、馬鹿じゃないの?!何処まで馬鹿なのよ…っ?!」
 そんな柚奈の本音にようやく気付いた次の瞬間、わたしは目の奥からじわりと熱い何かが込み上げてきそうになるのを感じながら、感情を抑えることなく叫んでいた。
(じゃあ、今までのわたしの努力は一体何だったのよ?!)
 …いや、それよりあんたには、わたしなんかとは比べ者にならない位に背負ってる重いモノがあるでしょうに。
「ぐすっ…馬鹿で…いいもん…っ、好きになっちゃった人に…誰より一番好きだって言える人と一緒に居られなくなる位なら…っ」
 しかし、そんなわたしを前に柚奈はべそをかきながら、まるで駄々をこねる小さな子供の様に首を振ってみせる。
「柚奈…」
「みゆちゃん…私はもう独りになるのは…イヤだよ。その為なら、過去も未来もいらない…だから…」
 その後、震えた声でそう締めくくると、静かに両手を差し出してくる柚奈。
 こちらを見据える柚奈の瞳は潤んでいながら縋りつく訳でもなく、勿論諦めている訳でもなく、ただわたしからの返答をしっかりと受け止める意思を示していた。
(独りになるのは…イヤ…か)
 茜が聞いたら泣きだしそうというか、柚奈を愛してる友人達はご愁傷様って所ね。

 しかし…。

「…………」
 本当は、すぐにでもその手を取ってやりたいけど…。
「えっと、わたし…このまま受け入れてもいいのかな?」
 それでもこの期に及んで腕を伸ばしきれず、未だに煮え切らない台詞を返してしまうわたし。
「どうして…?」
「だって、未解決の部分だってまだ沢山あるし、その…」
 情けない事に、柚奈を抱きしめたい衝動が沸き立つ一方で、未だ欲求の赴くままに任せてしまっていいのかなという疑念が消えていないのも確かであって。
「…………」
「…ね、みゆちゃん…みゆちゃんも私の事が好きだから、誰にも渡したくないって思ってくれたから、ここまで迎えに来てくれたんだって、信じていいんだよね…?」
 すると、柚奈はほんの少しの間を置いた後で、わたしを見据える表情を僅かに緩ませながら、静かにそんな事を尋ねてきた。
「…え…?」
「…………」
 そっか…。
「…そうだよね。本当は、それだけの話なんだよね」
「うん…」
 極めて単純で、そして理不尽。
 …でも結局、わたしも柚奈の事が決して嫌いじゃないから、始めて出逢ってからずっと付きまとわれても受け入れてきたんだろうし。
(いや、そうじゃない…本当は…)
 あの時、運命の出逢いを経てひと目惚れしてしまったのは柚奈だけじゃなくて…きっと、わたしもだったんだから。
 …そして、それこそがずっとわたしが柚奈の手を寸前で拒み続けながら探していた理由。
 どうして柚奈がわたしにひと目惚れしたのか、そして…わたし自身がこのまま自分の意志がはっきりしないまま受け入れ、流されてしまった後に不幸を呼ぶ事にならないだろうかという猜疑心。
「…………」
 片方の理由は、柚奈本人と茜の話で大体掴む事が出来た。それでも、そこに至るまでの柚奈の過去については未だに分かってないけど、今はそれは置いておいていい。
 そして…心に引っかかりを与え続けていたもう1つの答えは、わたしの記憶の中で眠っていた。
(まったく、滑稽な話よね…)
 きっと、素直に認めるのが癪だから無意識のうちに心の片隅へ追いやっていたのかもしれないけど、それも結局は引っ張り出されてしまった。
 …本当は、わたしも柚奈に負けない位に好きなんだって真実と共に。
「だから、本来は何も気にする事なんて無かった…って事?」
 結局の所、見えない将来になんて端から怯える必要なんて無かった。
「…うん。そうだと思うよ。少なくとも、私はずっとそのつもりだったし」
「はぁ…やっぱり柚奈は強いよね…わたしなんて、小さな物音でビクつきまくりの小物だもん」
「ううん、それもみゆちゃんが一緒に居てくれればこそ、だよ」
「そっか…」
 つまり、それこそが柚奈にしてあげられる唯一の事で、同時にわたしの望みでもあって。
 なら、迷うことなんて無い。今まで鈍感な片割れが気付かなかっただけで、あの時からわたし達は双星の如く決して引き離せない絆で結ばれてしまっていたのだから。
「…いいわ。わたしの側が柚奈の居場所なら、好きなだけ居ていいよ。もう、何も言わないから」
 やがて、何だか一種の悟りを開いた様な気分になると共に、とうとう心の白旗を掲げる決意が出来たわたしは静かに、しかし伝えてやるべき自分の想いをしっかりと自分の口から紡ぐと、今度こそ両手を伸ばして柚奈の手を取ってやる。
 その柔らかくて心地よい温もりには、何処か懐かしさも混じっていた。
「みゆ…ちゃん…!」
「やっぱりわたしも、柚奈がいないと落ち着かないみたい。側にいても離れても柚奈の事を考えてしまって何も手につかないなら、まだ今まで通りの方が遙かにマシってもんだし」
「う、うん…っ…」
「これでいいのかどうかってのは、きっと誰にも分からないけど…それでも、もしこの先で後悔する事があっても、わたしはちゃんと側にいるから」
 結局は、それでいいんじゃないだろうか。
 一応、これは冴草先生にも言われた言葉だけど、自分で結論として導き出す事が出来たって事が何より大切なんだろうから。
「だからね、柚奈。…もしその時が来たら、二人で悩んだり乗り越えたりしましょ?」
 そして、そう締めくくるわたしの顔からは、自然と笑みが溢れていた。
 …多分、これは柚奈に向けて初めて見せた顔。完全に迷いが吹っ切れた、わたしの強い意思を込めた笑み。
「みゆちゃん…ぐすっ、いいんだよね?わたし、また前みたいにみゆちゃんの側に居続けて…」
「あはは、まぁ少しくらいは自重してくれたらありがたい……って、うわわっ!」
 しかし、そんな照れ隠しの苦笑いも終らないうちに、両手を広げながら一直線に飛び込んで来た柚奈かの全身全霊のタックルを受け、そのまま後ろへ倒れてしまいそうになるわたし。
 ここへたどり着くまではずっと警戒していたというのに、結局はこれ以上ない位のクリティカルな不意打ちを決められてしまった。
「だ〜っ、暑苦しいんだからそんなに強く抱きつかないのっ」
「やぁだ♪これでやっと元通りなんだし、今までの分を取り戻さなきゃ。本当はもう、みゆちゃん断ちも限界だったんだから」
 そこで、照れ隠しも含めていつもの調子で引き剥がそうとするものの、柚奈の方はますます体重を乗せて抱きしめる腕を強めるばかりで、次第にわたしは2人分の体重を支えて倒れない様に踏ん張るだけで精一杯になっていく。
「…そりゃ、無理させたわね」
(なるほど、みゆみゆ分の不足、か…)
 どうやら、柚月が言っていた通りらしい。
 もしかしたら、本当に干上がる所だったのかも。
「だ・か・ら、今は離せません〜♪たとえ、みゆちゃんに嫌われる事になるとしても」
「えと、それって矛盾してない…?」
「ううん?みゆちゃんが好きなだけ側に居ていいって言ってくれたんだから、これからはもう私から離れたりはしないだけ♪この先、嫌われて突き放されたりしてもね」
「ああ、そーですかい」
 何だか随分と勝手な理屈というか、もう取り返しのつかない事を言っちゃったみたいで、ちょっと勢いに押されて早まっちゃったかなーという気がしないでもないものの…。
(…でもまぁ…少し位ならいいか)
 結局、1年以上続いた鬼ごっこはわたしの負けなんだし。
 だからわたしは、言葉でそれを伝える前に柚奈の背中へ手を回し、そっと抱きしめてやった。
「あ……っ?みゆちゃん……」
「まぁ、色んな意味で随分と待たせちゃったみたいだから、この位は…ね」
 今まで一方的に抱きしめられていた時とは違う、両手から全身へふわりと伝わる柚奈のぬくもり。
「うん…みゆちゃん分を急速充電…だね…」
 同時に柚奈の方も、力任せにしがみ付いていた腕の力を緩めると、自分の身を預ける様にしてわたしの胸元へと顔を埋めていく。
「…でも、暑いんだから少しだけよ?」
「少しだけってのは不満だけど、でも今はそれでいいよ…こうしていられるだけで」
「…柚奈…」
 もしかしたら、本当は疲れ果てていたのかもしれない。
 出逢う前までは心を閉ざしてしまう位に誰かに傷付けられたって言ってたし、本当は必死でわたしの側にしがみつくより、こうして甘えたかったのが本音だったのかもしれない。
 …そう思わせる位、わたしの胸の中で囁く柚奈からは、いつもの勢いが感じられなかった。
(今考えたら、もうちょっと位は優しくしてあげれば良かったかな…?)
 思えば、ある程度のセクハラには甘んじてきたものの、つけ上がるからの一点張りで甘えさせてはあげてないんだよね。
 それに…。
(なんだろう…この感覚…?)
 わたし自身、何だかくすぐったい様で、同時に凄く心地よかったりもして。
 まるで全てから開放されて、ふかふかのお布団の上に身を投げ出した時の様な感触に、何だか今まで蓄積していたモノが一気に崩れてしまいそうな…。
「…何より、ようやくみゆちゃんの方から抱きしめてくれたしね」
「ああ、そう言えばそうだっけ…?」
 柚奈に強引に求められてならキスまではやっちゃった覚えがあるけど、確かに今までは常に押されて引いての繰り返しだった訳で。
 もしかしたら、いつの間にか流されたり、受け入れたら負けだなんて思い込みが自分の中で障壁になってしまっていたのかもしれない。
「そうだよ…私にとっては、これだけで記念日ものだから」
「…悪かったわね、そんな大袈裟な話になるまで焦らせて」
 そこで、柚奈の口から出た”記念日”って単語が何だか皮肉に聞こえてしまったわたしは、思わず自虐を込めた苦笑いを浮かべてしまう。
 半分以上は柚奈の自業自得としても、こうしてようやく受け入れた今は、確かに今までの自分の鈍感さにいくらかの後悔の気持ちが芽生えているのは確かだった。
「ううん、でも待っただけの甲斐はあったよ。…だって、今日は私の為にこれだけ一生懸命走り回ってくれたみたいだし」
 すると、そんなわたしへ柚奈は非難の台詞を続ける代わりに、愛おしそうに埋めた顔を左右にすり寄せてくる。
「…ええと、やっぱり汗くさい?」
「ううん…いい匂いだよ…ずっとこうしていたいくらい」
 そしてその言葉に偽りは無いのか、汗の匂いを味わうかの様にゆっくりと頬ずりを続ける柚奈。
「こらこら、それじゃ変態だってば…」
 こっちとしては、嬉しい様な恥ずかしい様な複雑な感情が混ざり合って、何だかくすぐったい事この上ないんですがね。
 せめて汗を流して、着替えた後にしてくれるとありがたいというか。
「ヘンタイでもいいも〜ん。みゆちゃんが、私の為にここまで必死になってくれたってのが何より嬉しいんだから、しっかり満喫しておかないと♪」
「…別に、わたしの要領が良ければここまで汗だくにならなくて済んだんだけどね」
 結果的にはスタート地点のすぐ近くにゴールがあったってのに、結局そこには目もくれずにスルーしたまま校内一周+αを走り回っただけの話であって。
(タイムアップギリギリで駆け込んだってのも、考えたらなんて自作自演なんだか…)
 ええと、こういうのを仏教用語でマッチポンプって言うんだっけ?
「ううん。そういうのもみゆちゃんらしくて好きだけど?」
「そいつは重畳ね。わたしの方と言えば、報われない努力ばかりで辟易してた所だし」
「んじゃ、私が報いてあげる〜っ♪ん〜〜っ」
「ああもう、そう来ると思ったわよ…っ!」
 そして言うが早いか、顔を上げて素早く唇を奪おうと迫ってきた柚奈から、顔を逸らせて回避するわたし。
 案の定、やっぱり抱きしめるだけでは満足していないみたいだった。
「もう、みゆちゃんってば観念したハズなのに〜〜っっ」
「うるさいわね。あんたの要求が大胆すぎんのよ」
 またこれから、隙あらば所構わず襲われそうになる攻防が再開されるんだろうか。
 …それでも、久々の流れを取り戻せてちょっとだけ安堵しているのは、もちろん柚奈の奴には内緒の方向だけど。
「え〜?この程度で大胆って言われても、こんなの挨拶程度だよ?」
「見解の相違ね。…というか、ちゅーだけで済ませる気は無いんでしょ?」
「そりゃもう、私の為にヘトヘトになったみゆちゃんを色々と癒してあげたいし」
「い、色々って何よ…?」
 しかし、それから口元を微妙に歪ませ、ニヤリと妖しい眼光を放つ柚奈の視線に、心臓が一瞬どきんと高鳴ってしまうわたし。
 今まではそんなイヤらしい事をする気満々な目で見られても、危機感で背筋に寒気が走るだけだったのに…。
「マッサージで疲れた筋肉を解してあげたりとか、べっとりになってしまった汗を流してあげたりとか。じっくり丹念に…んふふ〜♪」
「…………っ」
 じっくり、丹念にって…。
 えっと、つまり…。
「という事で、ご飯にします?お風呂にします?それともわ・た・し?」
「…んじゃ、ご飯にする。お腹空いたし…」
 しかし、まだそこで後者のどちらかを選ぶ勇気が出なかったわたしは、素っ気無く回避用の選択肢を選んでしまう。
「ぶ〜っ、みゆちゃん空気読めない〜!」
「だ、だってマッサージとか言いながら、ヘンな事もするつもりでしょ?」
「うん、する」
「…………」
 はっきり言い切りやがったわね、この子…。
「でも、ちゃんと疲れも取ってあげるから大丈夫だよ〜♪」
「優先順位が入れ替わってるっての…それに、そろそろ出ないと閉じ込められちゃうでしょ?」
 今何時かは分からないけど、気付けばオレンジ色に染まっていた空はすっかりと沈んで、星空の落ち着いた輝きに彩られた夜の色へと変わろうとしていた。
「ん〜。その時は一緒にお泊りしよっか?宿直の先生用にシャワールームもあるし」
「あほう。お説教くらって追い出されるのがオチよ」
 というか、あっさりと学校にお泊りしようと切り返す思考が凄いというか、なんと言うか…。
「むぅ、みゆちゃんにはロマンが無いなぁ」
「あんたが大胆すぎるだけだっての」
 しかもロマンというより、煩悩にまみれすぎてる気がするんですがね。
「…まぁいっか。これからゆっくりとみゆちゃんの恥じらいを溶かしていくのも楽しいかな?」
 しかし、それから不満そうな顔を突然崩したかと思うと、今度はそんな台詞と共に「ぐふふっ♪」とイヤらしい笑みを浮かべる柚奈。
「あのね…何だかオヤジくさいわよ、その台詞」
 そこで反射的にジト目を向けてやるわたしなものの、やっぱり今は背筋に寒気を感じる所か、ドキドキと胸が高鳴り続けていたりして。
(どうやら、そろそろ潮時みたいね…)
 ホントにここまで粘り強く頑張ったわよ、あんたは。
 いい加減応えてやらなきゃ、武士じゃなくても女がすたるってものだろうし。
「…でも、今日はこれで我慢するから…もう少しだけこうしていてもいい?みゆちゃん分の充電、もうちょっとだけ足りないし」
「へいへい。んじゃ、ホントにもう少しだけ…だからね?」
「うん……」
 そして溜息混じりに素っ気無く告げる台詞とは裏腹に、わたしは先程より強く、柚奈の身体を抱きしめてやった。

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