知な堕天使(ルシフェル)さんは一途で積極的な巫女さんに篭絡される その2

第二章 魔界よりも乾いた世界

「ご無沙汰しておりますが、その可愛らしいお姿もよくお似合いですよ、ルシフェル様?」
 ……正直、最初は目を疑った。
 しかし、翼こそ引っ込めたままとはいえ、私に名を呼ばれて振り返って見せた忌々しいほどの余裕に満ちた精悍な顔立ちや、本物である証明のつもりなのか、こちらへ向けて解放してきた強烈な気配は疑いの余地などない。
「いつまでも“様”付けはやめろ。そもそも、この私をルシフェル様でなくした張本人が」
 ついでに、この可愛らしい姿とされてしまったのもこいつの所為だというのに。
「やはり、昔の癖はそうそう抜けきらないものですね……。ここが天界ならば大問題になるところでした」
「……それで、私を裏切って天使軍の頂点を掴んだ熾天使の長が、どうしてここにいる」
「もちろん、可愛らしくも無様な姿となったかつての熾天使ルシフェルを嗤うつもり、と言ったらどうします?」
「それは態々ご苦労なコトだな……。尤も、それ程に恨まれていたのならば想定の外だったが」
 お陰で、満身創痍の状態で無防備に背中を預けるという愚かな失態を犯してしまった程には、な。
「ふふ、もちろん冗談です。別に個人的な感情などは無く、ただ私は貴女と共に滅びる道を選ばなかっただけの話ですから」
「ふん。……だが、わざわざ熾天使ミカエルが自ら待ち構えていたというコトは、やはり私が”ここ”へ飛ばされたのは予定通りで、しかも何やら企んでいるという話か」
「さて、もう私には答える義務などありませんが、まぁいいでしょう。貴女を魔界へ突き落とすのではなく人間界に転送させたのは確かに予定通りです。……もっとも、翌朝に貴女が裸で野垂れている姿を見られなかったのは残念でしたが」
 ともあれ、寒い中で無駄な舌戦を続けるつもりもない私が肩を竦めつつ核心に入ると、ミカエルも澄ました顔で肯定してくる。
「生憎、この神域を管理している娘の節介のお陰でな。しかし何故だ?」
「とりあえず、追放先で貴女を滅ぼすにはこちらの方が適しているから、とだけ言っておきます」
「堕天使の処刑場を押し付けている魔界よりも、か?……まぁ確かに、場合によればいきなり凍死しかけるところだったが」
「……いいえ、その程度で滅ぼせるのであれば、この私が“あの時”にトドメを刺しています。剣で貫いた後に渾身の炎で焼き尽くして尚、殺しきれませんでしたから」
「しかも、完全に油断させた状態での不意打ちでな?」
 尤も、それでも私という自我が消滅しなかっただけで、神にも等しいとまで称される神霊力を秘めた史上最強の熾天使ルシフェルはあの時に滅ぼされたも同然なのだが、それでは飽き足らなかったという訳か。
「ええ、ですから……」
 そして、隙を見つけて挟んでやった嫌味にミカエルは涼しい顔で右手を翳し、かつてこの私を貫いた天使剣を呼び出したかと思うと……。
「…………っ」
「……今、戯れに私がここで貴女の首を撥ね、千の破片に切り刻んだとしても、やはり殺したことにはなりません。その魂自体を滅ぼさないことには、ね」
 一瞬で距離を詰めて来たミカエルが、私の首筋へ刀身を押し当てつつそう告げてきた。
「…………」
「貴女の“器”そのものは不死身に等しい存在。……滅ぼし得るのは剣でもなければ全てを灰塵と化す劫火でもありません」
「成る程、な……」
 一応、天界の連中が何をやろうとしてるのかは段々と見えてきたかもしれない。
「だが、私を魔界へ飛ばさなかった理由はそれだけではないだろう?」
「貴女はあまりに有名な存在でしたからね。……この人間界を除けば」
「ふん……」
「ただ所詮は、今の貴女など飛ぶことも叶わぬ残滓も同然です。多少の想定外があろうが、遅かれ早かれの問題でしかありません」
 そうして、ミカエルはようやく剣を収めて再び距離を開けると、十二枚の眩い自分の翼を私に示威する様に広げて見せてきた。
「…………」
「……では、この乾いた世界で精々足掻いて見せて下さい。それでは、ごきげんよう」
「……ミカエル……」
 しかし、いよいよ話すべき用事も終わって相手が去ろうとした時、私は殆ど無意識にかつての片腕の名を呟いていた。
「なにか?」
「いや……お前は最後まで私の側に寄り添ってくれると思っていたんだがな」
「……私だってそのつもりでしたよ。貴女さえ愚かな真似をしなければ、ね」
 それから、私が吐いた埒も無い捨て台詞にミカエルは少しの間を置いた後でそう答え、今度こそ一瞬で消える様な速度で飛び去って行ってしまった。
(愚かな真似、か……)
 所詮は、私には理解者など一人もいなかったのだな。
 まぁ、今となっては悲しみも憤りを覚えることもないのだが……。
「ふん、ミカエルの分際でこの私に精々足掻いて見せろ、だと……」
 ……ただ、叶うならばあの生意気な裏切り者に一泡吹かせてやりたいものである。
 が……。
「……はぁ、はぁ……っっ」
「……ああっ、やっぱりここでしたか?!はぁ、はぁ……っ」
 ともあれ、それから暫し漠然と立ち尽くしていた中、入れ替わりに背後から別の声が聞こえたかと思うと、いつの間にやら追いかけて来ていたらしいこの神域の管理人が息を切らせつつ近付いてくる。
「依子か。まぁするコトも無くなってしまったんで、手がかり探しにな」
「もう、出かけるのならせめて書き置きでもしていって下さいよ……学校終わって急いで帰ったら居なくて心配したじゃないですか……ぜぇっ」
「……ああ、それは悪かったな」
 別にずっと家に留まっていると約束した覚えは無いものの、朝に出かけた時と同じ服装のまま顔中から大粒の汗を滴らせているのを見て、とりあえず苦笑いを漏らしつつ謝っておく私。
 一体何がそこまで必死にさせるのか、正直理解には苦しむが……。
(……そういや、ミカエルの奴も私に付いた最初の頃はこんな感じだったか?)
「…………」
「まぁ、すぐに見つけられたからいいですけど……ところで、今さっきまでここに誰かいませんでしたか?階段を上りきる直前にちらっとあなたの前に誰かいたのが見えたような……」
「……ああ、昔の知り合いとばったり出くわしてな」
 ともあれ、それからまた何となくミカエルが飛び去った方角へ視線をやる中で依子が訊ねてきたのを受けて、薄暮に染まってゆく空を見上げたまま肯定する私。
「え……?で、でも、それじゃどこ行っちゃったんです?」
「もう、飛んで行った。行き先までは知らないがな」
 果たして天界へ戻ってしまったのか、もしくは暫く留まって私を監視するのか……応えるかは別として聞いておいても良かったかもしれない。
「飛んで行ったって、もしかして……」
「……何にせよ、もう用事は終わったし疲れた。ここまで迎えに来てもらって忙しないが、そろそろ戻るとしようか」
 ともあれ、依子の声で緊張も解けて一気に疲労感がのしかかって来た心地になった私は一方的に会話を打ち切ると、相手を待たずに石階段の方へ歩き始めてゆく。
「は、はい……!あ、でも帰りに晩御飯のお買い物してもいいですか?」
「ん?ああ、心配かけた侘びに荷物持ちくらいはしてやるぞ?」
「えへへ、そうこなくっちゃです♪」
 ……そして、そんな私に依子はやっぱり嬉しそうな笑みを浮かべつつ追いかけてくるのだった。

                    *

「……それで、今日は明るいうちに外を歩いてみてどうでしたか?」
「どうでしたか?と言われても、ほぼこの家と神社を往復しただけだしなぁ……」
 やがて、日もすっかりと落ちて迎えた夕食時、朝と同じく居間の丸テーブルを二人で囲んで依子の作った鶏肉の揚げ物や魚の煮物などを一緒に平らげてゆく中で急に尋ねられ、箸を止めないまま苦笑い交じりに答える私。
 他には一応、帰りに依子の買い物にも付き合ったが、特に目を引くような物も無かったし、感想を求められても正直困るというか。
「まぁ、いつまでもサイズ違いのわたしの服を着てもらうわけにもいかないですし、良かったらこの週末にでもショッピングがてらに市街地を案内しますよ?前にも言ったと思いますけど、ここは天使様との関わりが深いとされる街ですから」
「……知っている。私は初めての場所だが、この街は天界でも知られた地点だったからな」
 それに、確か住宅街となっているこの地区には天使軍の駐在拠点があって、常時ではないにせよ諜報活動を担当する天使が紛れ込んでいる筈なのだが、物好きな依子には話してやった方がいい情報なんだろうか?
 ましてや、さっきは誤魔化したが先程まで境内に現役の熾天使(セラフィム)が降り立っていたなどと。
「ふふ、朔夜(さくや)さんにも気に入ってもらえると嬉しいですねー」
(気に入る、か……)
 正直、癪には触るんだがな。
 ……いや、それはともかくとして。
「……ん、朔夜だと?」
「あ……しまった。本当はご飯食べ終わってからのつもりでしたけど、フライングしちゃいました。えっと、ちょっと待っててくださいね?」
 続く会話の中で何やら聞き覚えの無い名前をいきなり呼ばれて私が訊ね返すと、依子は慌てた様子で立ち上がり、食事中だというのに部屋を出て行ってしまった。
(なんだ……?)

「……はいはい、お待たせしましたー」
「いや、別に待ってはいないが食事が冷めるぞ?」
 それから、程なくして依子は何やら装飾された縦長の厚紙を手に戻ってくると、元の席に一旦座った後で改めて切り出してきた。
「まぁまぁ。実は今日の午後くらいから、授業も聞かないでずっと考えてたんですけど……」
「いや、ちゃんと聞けよ……んで、何を考えてたんだ?」
「名前ですよ、名前。だって、昨晩にお名前を聞いたときに自分はもう名も無き存在だって教えてくれなかったじゃないですか?」
「そりゃな……脅かす訳じゃないが、敢えて聞かない方がいい場合もあるものだ」
 ましてや、それが悪名の場合は尚更である。
「なので、それならいっそわたしがこちらの世界で呼ぶ名前を考えてあげたらいいんじゃないかと思い立ちまして……じゃーん♪」
 しかし、依子はそんな私の警告など耳に入らない様子で、得意げに持ち込んできた厚紙をこちらへ押し付けてくると、そこには丸っこい手書きで『命名 黎明 朔夜(れいめい さくや)』と読み方も添えた名前が記されていた。
「……黎明朔夜、ねぇ」
「色々悩んだ末ですが、下の名前は朔夜さんがいいんじゃないかと。……あ、でも決して昨夜に出逢ったからっていう安直な発想なんかじゃないですよ?真夜中の月明かりに照らされた姿があまりに綺麗だったもので……」
「いや、まぁ私はなんでも構わないが、黎明というのは……」
「出逢いを祝したはじまりという意味で付けさせていただきました♪最初は同じ姓にしようかとも思ったんですが、それは勝手にやると後で色々問題になりそうですし……」
「……そりゃそうだ。私も人間の養子になる気はないぞ?」
「いえ、わたし的にはむしろふう……いえ、ともかく今後はあなたのコトを黎明さん、もしくは朔夜さんと呼ばせていただきますけど、よろしいでしょうか?」
 それから、何やら不穏な言葉を言いかけたところで取り消すと、提案というよりは念押しに近い調子で了承を迫ってきた。
 ……とまぁ、私としては名前に関しては特に不服は無いというか、興味もないのだが……。
「まぁ呼びたい様に呼んでくれ。……それより、君は本気で私をここへ住まわせる気なのか?」
「勿論ですよ?ちなみに、うちの家族構成は父と二人なのですが、その父は単身赴任中で実質はこの家に住んでいるのはわたしだけですから、気兼ねも要りません」
 むしろ、それよりも一度明確に確認しておこうと思っていたコトを尋ねると、依子は躊躇いなく頷いた後で、更に同じく聞きそびれていた家族についての話も自分から付け加えてきた。
「気兼ね要りませんと言われても……」
 つまり、まだ本当の家主の許可は得ていないんじゃないか。
「もちろん、朔夜さんが本格的に住むとなればきちんと説明しておきますけど、とにかくそんなわけでこの旧家に一人暮らしというのは、慣れてきたとはいえ心細さはあるんですよね……」
「……まぁ、それはそうなんだろうな」
 自分も午前中はこの家で独りぽつんと過ごしていたが、敷地が無駄に広いだけ余計に孤独は感じてしまうのかもしれない。
「なので、防犯の為とかそういうつもりもないですが、それでも居てくれれば心強いのです」
 ……まぁ、確かに身寄りがない上に殆どの能力(チカラ)を失ってただの人間と変わらない状態になってしまっている私にとっても、渡りに船という話なのだろうが……。
「事情は分かった。……しかし、それだけじゃないんだろう?」
「ええ、もちろん♪昨晩も言いましたけど、わたしは御影神社に残る天使降臨の伝説にずっと興味があったので、こうやってお近づきになれて一緒に住めるなんて夢のようなお話なのですよ!」
「だから、私はもう天使じゃないと言わなかったか?」
「でも、天使だったのは確かですよね?」
「……まぁ、それはな」
 灰色に濁ったが背中の翼そのものは残っているし、今後何らかの方法でチカラさえ戻れば、少しは(元)天使らしい姿も見せてはやれるだろうが。
「とにかく、他に行くアテがないのなら、わたしの方は全然構いませんから♪その代わり、天使の世界についてわたしにも色々教えてもらえれば」
「しかし、軽々しく教えていいものか……いや、いいのか……」
 何せ、わたしは神の叛逆者なのだから、今さら天界の規約に縛られる理由はない。
「では決まりですね〜。それでは改めてようこそ我が家へ♪」
「……後で後悔しても知らないからな。たとえ、人ならざる妙な連中に絡まれようと」
 ともあれ、断る理由を悉く突破され、白旗を上げる代わりに捨て台詞の様な警告を返す私。
 尤も、天使軍と魔軍との協定で、人間界に滞在中は不要な諍いの自粛と現地の住人には手を出さないというルールは定められているので、そうそうあり得る話でもないだろうが……。
「ん〜、一応これでも私は巫女の端くれですし、むしろどんと来いですかね?」
「……理由になっていない気はするが、まぁいい。そこまで言うのならよろしく頼む」
「はい、しかと頼まれました♪」
 まぁ、ここまで警告した上で踏み込んで来るのなら、これ以上は私の関知する所ではないし、今後どうするかを決めるまでの宿り木として、こちらも精々利用させてもらおう。
「さーて、そうなれば朔夜さんに住み込んでいただく為に色々と忙しくなりそうですけど……」
「いや、滞在費を払えるわけでもないし、別に私は今のままでも構わんぞ?それに、何かやるべき仕事があるのなら遠慮なく言えばいい」
 だからといって、図々しく寄生するのも居心地が悪い上に、“齎す者”である天使の長を務めた者としての矜持も収まらないので、せめて何らかの形で代償を払えればと持ち掛ける私。
「ホントですか?!それじゃとりあえず一つあるんですけど……」
「う、うむ……?」
 すると、それを聞いた依子が目を輝かせつつ前のめりになってきたのを見て、一瞬私は早まったか?と後悔しかけたものの……。

                    *

「……ん〜、やっぱ綺麗なお肌ですねぇ。いい……」
「そ、そうか……?」
 やがて、改めてお客さんから同居人となった天使さまと二人で後片付けを済ませた夕食後、こちらの希望を聞いて貰って一緒にお風呂へ入ったわたしは、早速泡立てたボディタオルで朔夜さんの透明感のある白肌を流してあげていた。
「ち、ちょっと直接触ってみてもいいですか?……おおお……」
 しかも、きめ細かいだけじゃなくて指先で触れた心地も抜群で、これは癖になりそうな……。
「ちょっと待て、くすぐったいだろう……しかし、どうしていきなり一緒に風呂なんだ……?」
「いえね、我が家に代々伝わる風習として、懇親の証に背中を流し合えとご先祖様が……」
「本当か……?」
「……すみません、ただ朔夜さんの肌に触れてみたかっただけです」
「正直でよろしい。……まぁ、居候の身になった訳だし、お前さんの好きにしてくれ」
「え〜、そんなコト言われると更に調子に乗ってしまいますよ〜?でへへ」
「うお……っ?!」
 しかし、それから「好きにしてくれ」という甘美な言葉で沸き上がったイケナイ妄想に興奮してしまったわたしが力加減を間違えて肩口を力いっぱい擦ってしまうと、朔夜さんの肌の一部が剥げ落ちてしまった。
「わわ、ゴメンなさい……っ?!」
「い、いや大丈夫だ……少し驚いたが問題ない」
「で、でも、皮膚が……あれ……?」
 それを見て血の気が引いたわたしは平謝りしつつ患部を注視するものの、実際には皮膚が捲れ上がっている痕跡は見えなかった。
「ん、皮膚がどうした?」
「…………?」
 それから再度、両目を擦った後で思い切ってその部分へ触れてみても、やっぱり何ともないみたいだけど……。
「えっと、その……痛みませんでしたか?」
「いや、いきなり強く擦られたので少々驚いてしまっただけだ。そんなに柔には出来ていないしな」
「…………」
 もしかして、湯気で見間違えただけなのかな……?
(まぁ、いいか……)
 とりあえず、朔夜さんも平気みたいだし。

「……それにしても、翼がある以外はわたしとほぼ変わらないんですねぇ?」
 ともあれ、やがてお互いに背中も流し終えた後で向かい合って広めの湯船に浸かり、怒られない程度に朔夜さんの身体をじろじろと眺めつつ感想を述べるわたし。
 ちなみに、平静を装っている裏では鼻血が出そうだったり、手を伸ばして相手の控えめながら形のいいふくらみに触れたくなる衝動を抑えたりと、全然余裕は無いのだけれど。
「基本構造はな。ただ、過酷な飛行や戦闘に耐え得る身体能力や耐性は備わっているが」
「へー……それじゃ、人間みたいに結婚して子供を作ったりも……?」
「一応、その辺も同じなんじゃないか?私は経験無いから良くは知らんが」
 そして、湯船の中で閉じられた両股の先にある腹部をちらりと見やりながらわたしが続けると、朔夜さんは大して興味も無さげに素っ気なく答えてきた。
「そ、そうなんですか?……んじゃ、朔夜さんって天使時代に恋人とかは?」
「……さて、考えたことも無かったな。まぁ、勝手に付きまとってくる奴はいなくもなかったが、私は生まれながらにして孤高の宿命を負っている身ゆえにな」
「あ、あはは、やっぱりモテてはいたんですね……」
 一瞬、自分のコトを言われたのかとドキっとしてしまったものの、確かに気持ちは分かる。
 ……ただ、自分で孤高とか言っちゃう人は、確かに一筋縄じゃいかないんだろうけれど。
「そもそも、天使というのは自分達が仕える神以上に誰かを敬愛するのは禁忌だからな。その位の心構えの方が好ましいという訳だ」
「なるほどー。でも、今の朔夜さんはその限りではないですよね?」
「まぁ、確かにそうなるが、だからどうだと言ってしまえばお仕舞いだな」
「……あはは、やっぱりそうなりますか……」
 今も昔も色恋沙汰には興味無しなのは都合がいいやら悪いやらだけど、ただ昔にこの街へ舞い降りた天使様は愛を司る役割を名乗って縁結びしていたと伝えられているから、朔夜さんがここまでドライなのはちょっと意外だったかもしれない。
「……それで。お前はどうなんだ、依子?」
「わたしですか?わたしは一応巫女さんなので、神様の嫁なのです!」
 ともあれ、続いて今度は朔夜さんの方から水を向けられ、胸を張って得意顔で答えるわたし。
「……分かった、いないのだな」
「あはは、まぁ一人暮らしになったのもあって、家事やら神社の管理をこなしつつ生きていくのが精一杯って感じで」
「心細い思いをしながら、か。見た目の割に苦労しているみたいだな?」
「といっても、別に生活苦なわけでもないですし、ちょっと忙しいなってくらいですけどね」
「……しかも、そんな多忙の身で墜ちてきた堕天使まで拾うとは」
「まぁ、最近は減ってばかりでしたので、ここらで増やしたってバチは当たらないかなって」
 湿っぽくなるから言わないけど、二年前にお母さんを亡くしてからこっちはね。
「そうか……。あまり賢明な選択とも思えんが、まぁ今の私は道端に転がる石ころも同然だからな。拾った者が好きにすればいい」
「もう、そんな卑下しないで下さいってば……」
 ……だから、今回の朔夜さんとの出逢いは神様からの贈り物かなと思ったりもしたんだけど、まさかその神様に追い出されてしまった人だったなんて、ほんと皮肉な話……。
(あれ……?)
 と、考えに浸りつつ拾った堕天使の女の子を眺める中で、ふと朔夜さんの腕の辺りから粉のような粒子が湯船のほうへ零れているのが見えた……気がするわたし。
「どうした?」
「あーいえ、どうもさっきから幻覚みたいなのが……」
「疲れているんじゃないのか?今日は早く寝たほうがいいな」
「でしょうかねぇ……」
 出来れば、もうしばらくジロジロと眺めていたいコトはいたいんですが……。

第三章 救世主候補

「朔夜さんー、今度はこれなんてどうですか?」
「んー?まぁ私は別にどんなのでもいいんだが……」
「それじゃ、ちょっとこれ着てみてもらえます?」
「は〜、また試着するのか……」
 やがて、甘菜家へ居候することになって幾日か経った週末の昼下がり、午前中で学校を終えた依子に街の中心部にあるショッピングモールまで連れて来られた私は、あれやこれやと着せ替え人形も同然の状態になっていた。
「もう、自分が着る服なんですから、少しは興味持ちましょうよ?」
「そうはいったってなぁ……」
 まだ、最初の店に入った頃は物珍しさも感じていたものの、依子から一方的に服を押し付けられつつ既にこれが四件目となれば、そろそろ勘弁してくれと言いたくもなろうものである。
「大体ですね、朔夜さんの方からどんどん選んでくれないのも悪いんですよ?これでも結構神経使ってるんですから」
「とは言うけどな、選んだら選んだで却下したじゃないか……」
「だって、朔夜さん柄すら見もせずにその辺にあるのを手に取っただけですし。ああいうのは“選ぶ”とは言いませんー」
「む……」
 そもそも、品物が豊富な大きな店舗に入っても一着と下着くらいしか買わずに様々な趣向の店を回っているのは完全に楽しんでいるとしか思えないのだが、まぁ言わないでおこう。
(……しかし、この私が人間の小娘にいい様に振り回されているとはな……)
 ミカエルの奴や昔の私を知る連中が見たら、笑うだろうか。
「ほら、とにかく着てみてください。しっくりきたらこれにしますから」
「……諒解した」
 まぁ、それでも神に叛逆した罰にしては、それ程悪い心地でもないが。
「……でも、朔夜さんがまだわたしの服を何とか着られる体形で良かったですよー」
 ともあれ、それから手渡された白いニットワンピースと赤のチェック柄の短いスカートを手に取りつつ試着室の順番待ちをしている中で、ふと依子が苦笑い交じりに水を向けてくる。
「ん?」
「服を調達といっても、一度に沢山は買えませんから。……たとえば、もし朔夜さんがあんなプロポーションな方でしたら、わたしは破産してました……」
 そこで、とりあえず頭だけ振り返って話に乗る私に、言葉の後半からやや声を潜めて、先程入ってきたばかりの長身で胸元の起伏が豊かな女性客の方へ視線を促す依子。
(……ほーお……)
「まぁ、確かになかなか悪くない体つきだが、本来の私と比べれば……」
「え?」
「……いや、なんでもない。気にしないでくれ」
 それを見て、昔の自分程ではないと自信をもって言える私は得意げに言葉を返そうとしたものの、すぐに首を横に振って取り消した。
「はぁ……」
 ……最早、あの全盛期の姿に戻るのは叶わないだろうから、振り返るのは虚しいだけだろう。
(それより……)
「…………」
 依子が注視したのをきっかけに、微かにだが違和感を感じた私が見据え続けてやると、こちらの視線に気づいた女性客は気付いていないフリをしつつ背を向けてしまった。
(ふん……)
「どうしました?……もしかして、朔夜さんってああいう女性がお好みとか?」
「どういう発想だ……。いやちょっと、昔に見た奴に似ていたもんでな」
「ふーん、昔の天使仲間にですか?」
「……まぁそんな所、かな……?」
 と、はぐらかしたものの、依子には生憎だがあいつの気配は人間でも天使でもなく、もっと不穏なものである。
 ……とはいえ、天使のいる場所に魔界からのエージェントが同じく紛れ込んでいるのは別段驚くべき事でもないのだが……。
「…………」
「あ、朔夜さん試着室空きましたよ?」
「……ふむ。依子、一緒に入るか?」
「え、えええ?!……あの、それってもしかして誘ってるとか……?」
「何を言ってる?そろそろ着替えるのも億劫になってきたから、手伝ってくれと言ってるんだ」
「あはは、それじゃ、今日はこのお店で締めにしましょうね?」
「……うむ、そうしてもらえると助かるな」
(まったく、無粋な邪魔者が……)
 いずれにせよ、天使軍にも魔軍にも属していない今の私には、どちらも落ち着かない心地にさせられる目障りな存在なのが面倒くさかった。

                    *

「……それで、どうしても案内しておきたい場所って、ここなのか?」
「ええ。はじまりの広場って呼ばれているんですけどね」
 やがて、何故か朔夜さんにいきなり誘い込まれて狭い密室での秘め事(試着)を堪能した後の夕暮れ時、わたしは買い物デートの締めくくりに御影神社と並んでこの街と天使の関係を語る上では外せない市街地中心部にある広場へ案内していた。
 レンガ造りの床や春になると青々と茂る芝生、大きな時計にカップル御用達の長ベンチなど、綺麗に整備されたこの広場は御影神社と共に長い歴史を持つ憩いの場であり、時代の中で姿は変わりつつも、昔からシンボル的な存在になっているのは中央にある、夏場は子供達が水遊びもしている大きな円状の噴水である。
「ほら、あの天使様の形をした噴水が、天よりの使いが降り立った場所と言われているんです」
「……その後、降臨した天使様の住処にと街並みを見下ろせる高い丘の上にお社が急いで造営され、やがてお役目を終えて再び天へと還られた後も、またいつでもここへ戻ってきて下さいという願いと絆の証に神社として継続されることになりました」
「それが、御影神社か。……それで、依子は自分の時代にまたふらっと戻って来ることを信じて、見に通っていたと」
「あはは……まぁ、どのみち定期的にお掃除はしなきゃならないですし……」
 むしろ、そんな憧れのお陰で境内の掃除という義務も苦じゃなかったというべきかもしれないけれど。
「成る程な。何にせよご苦労な事だ」
「……あ、そういえば朔夜さんって以前に心当たりがあるとか言ってましたけど、実際に降りて来た天使様について知ってるんですか?」
「まぁ、知らない奴でもないし、教えてやれない理由も無い。だがな……」
 それから、話の中でふと聞きそびれていた質問を思い出して水を向けてみたわたしに、朔夜さんは控えめな口調でまずは肯定したものの……。
「だが、なんですか?」
「天使も魔族も、案外人間の身近に存在しているものなんだ。……しかし、そんな事実を知ってしまうコトは必ずしも僥倖とは限らない。それは覚えておくべきだろう」
 すぐに、こちらへ真顔を見せつつ諭されてしまった。
「朔夜さん……」
「本来は、意識さえしなければ一生遭遇する機会もない奇異なる者達だ。しかし、自らそいつらの領域へ迂闊に足を踏み入れてしまえば、後悔しようがその時は既に手遅れかもしれない」
「……朔夜さん、心配してくれているんですか?わたしの方は正直、身近にいると聞いてワクワクが止まらないんですが……」
「ホント物好きだよな、お前……。少しは怖がった方がいいんじゃないか?」
 しかし、それでもポジティブに受け止めたわたしに、肩を竦めて呆れてくる朔夜さん。
「まぁ、少なくともそんなひと(?)達に怒られる様なコトをしている覚えも無いですし」
「……だと、いいがな。それに……」
 そして、こちらの軽口を受け流した後で、少し黙り込んでしまったかと思うと……。
「どうしました?」
「……いや、暗くもなってきたし、そろそろ帰るか?」
 まだ時刻は午後六時前ながら、いつの間にやら夜の闇に染まろうとしている空を見上げて帰宅を促してきた。
「あ、はい……。でも、今日の夕食は外食して帰ろうと思ってたんですけど」
 ……ただ、それでも朔夜さんには知らせていない本日の予定がもう一つ残っているので、事情を話して引き留めるわたし。
 だって……。
「む?……まぁ、私は別にどちらでも構わないが……」
「今宵は朔夜さんと是非とも一緒にお鍋をつつきたいと思って、既に予約もしてるんですよー。そろそろ向かうといい時間くらいです」
「……まぁ寒いから分からんでもないが、妙な拘りを感じるな?」
「ふっふっふっ、朔夜さんは知らないでしょうが、日本人は仲間が出来た時の親睦の証に同じ鍋をつついたり同じ釜のごはんを食べたりするんですよ?」
「やれやれ、またそれか……」
「いや、今度こそは本当ですってば〜っ。今回はちゃんと諺として根拠が残ってますから!」
「しかし、だったら家でやってもいいんじゃないか?そちらの方が気兼ねなかろうし」
「……もう、旦那さんはそれでいいでしょうけど、作る方は大変なんですよ?お買い物は大変だし、材料費も案外安上がりじゃないし、後片付けのことも考えるとのんびりできないしで」
 さすがに半日だけど歩き回った後に家で鍋の準備というのは苦行である。
 ……と、昔に家族で遊びに行ったときなどに亡くなったお母さんがお父さんとそういうやり取りをしていたのを覚えていたので再現してみたけれど、とうとう自分も奥さんの立場で言う時が来たのはちょっとした感慨かもしれなかった。
「誰が旦那だ……まぁいい、明日が休みだからといって、あまり遅くまで羽目を外そうとするんじゃないぞ?」
「なんでそこで今度は担任の先生目線になるんですか……」
 せっかく(わたしは)盛り上がってきたのに、一気に台無し感漂ってきてるんですけど……。

                    *

「……それじゃおやすみなさい、朔夜さん。今日はほんと楽しかったですよー」
「ああ、それは何よりだ。お休み……」
 やがて、依子が妙に浮かれていた以外は特に何事もなく外での食事が終わって帰宅し、何だかんだでまた当たり前に一緒に風呂へ入った後で、私は気のない就寝前の挨拶を返していた。
「どうしましたか?お疲れですか?」
「ん?あれこれと引っ張り回されて着せ替え人形にもされた疲れもあるが、まだどうにも依子が付けた名前が慣れなくてな……」
「慣れてください」
「……分かった」
 しかし、誤魔化しついでの軽口を叩いた後に依子から有無を言わせぬ笑みと共に短い言葉で求められ、ただ小さく頷かされる私。
(……まさか、この私が人間の威圧に屈してしまうとは……)
 というのはともかくとして、私を憂鬱な気分にさせているのは、疲れなどではなく……。
「では、また明日。日曜日ですけど朝ご飯ができたらちゃんと起こしに来ますから」
「そうだな、頼む……」
「ふふ、それと明日は何をしたいかも考えておいてくださいね〜?わたしも少しだけ悩んでから寝るとします」
「……ああ、お手柔らかにな」

「…………」
(ふん、どうやら魔界の連中に嗅ぎ回られているみたいだな……)
 それから、ようやく一人になれた後の客間で私は消灯だけして布団には入らず、備え付けの机の前に腰掛け、月明かりが照らす窓から夜空を見上げつつ本日の気になった出来事を整理し始めてゆく。
 最初に気付いたのは衣料品店だが、その後注意して気配を窺うようになってからは、買い物を済ませて休憩に立ち寄った珈琲店でも、更にはじまりの広場とやらで依子から案内を受けていた間でも、またその後に賑わっていた鍋専門の店で一緒に料理を突いていた時でさえも魔の者達の存在を感じ取れていて、それが完全に消えたのは最寄りの駅を降りてからである。
「全く、影から監視するのなら、もっと綺麗に気配を消せないものなのか。無能共が……」
 お陰で、依子には言えぬまま自分だけ余計な気疲れを背負い込む羽目となってしまい、何度途中で捕まえて文句を言ってやろうと思ったことか……。
「…………」
(……いや、違うな。おそらく気配を残していたのは意図的だ)
 しかし、誰もいないのをいいコトにとうとう言葉に出して愚痴ってしまったものの、すぐに思い直す私。
 寧ろあのワザとらしさは、敢えて私に向けて魔軍のエージェントが接近しているのを伝えていたつもりなのかもしれなかった。
(だが、何のために……?)
 無論、私が天界を追放された情報は連中も掴んでいるはずだが、ミカエルの奴は最初から魔界ではなくこの人間界へ追放する予定だったと言っていたし、何か関連が……。
「…………」
「……む……?」
 すると、そこまで考えが進んだところで、ガラス戸の向こうにある小さなテラスへ大きな影が静かに降りて来たのが目に入る。
「…………」
 正直、厄介事の予感しかしないので、無視して床についてやりたい処だが……。
(ち……)

 ガラッ

「……こんばんは、ルシフェル様。ご無沙汰となりましたけど、こうして再び見えられて嬉しい限りですよ」
 ともあれ、依子を巻き込むわけにもゆくまいと、渋々ながらガラス戸を解放してテラスへ出てやった先には、昼間に見かけた女魔族が灰色の翼を広げつつ、穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「貴様か。……衣料品店で見かけて以来だが、私も言いたいことがあったから丁度いい」
 おそらく、私を付け回していたのはこいつだろうから、飛んで火に居る虫でもある。
「いえいえ、ご無沙汰の意味はもう少し昔。……貴女がまだ叛逆軍の総大将だった頃よりです」
 しかし、初対面だと思っていた私に対して、目の前の堕天使から苦笑い交じりに訂正されてしまう。
「なんだと?つまりお前は……」
「……とりあえず、少し広い場所に移って話をしませんか?」
「まぁ、ここから離れていない場所なら別に構わんぞ?この屋根の上とかな」
 ともあれ、そこから意外と因縁の深かった相手に促され、私は観念して付き合ってやることにすると、こちらから指で場所を指し示した。

                    *

「……さて、それでは昔の誼で用件を聞いてやろう。ただし、寒いので手短に頼む」
 それから、訪問してきた昔の”同胞”の手を借りて二階の客室のすぐ上の屋根へと上がり、吹き付ける冷たい夜風に身を震わせつつこちらから切り出してやる私。
 とりあえず、すぐに戻って来られる場所を意図して屋根の上を示したものの、依子に買って貰ったばかりの寝間着だけでは充分な防寒になっておらず、足はテラスにあったサンダルを素足の上から履いているだけだから、突き放しているのではなく本当に長話は無理そうだった。
「畏まりました。……しかし、本当に飛べなくなっておいでとは……」
「見ての通り、天使の能力(チカラ)は綺麗さっぱり失われていて、最早この姿を維持するのが精一杯という状態でな。……で、こんな私に魔軍が一体何の用だ?」
 まさか、天使時代の恨みつらみを晴らす為だけでもあるまいに。
「正確に申し上げるならば、私は魔界政府の使いとして来ている立場ではありませんが、貴女をお迎えにあがりました」
 と、自虐気味に尋ねる私に対して、かつて「こちら」側で神に叛逆した堕天使は恭しく片膝を付いてそう告げてきた。
「迎えに?」
「ええ、本来は叛乱軍の首謀者として天界で最も重い極刑を受けた貴女は、一足先に堕とされた我々と同じく、いずれ魔界へ送られるものと誰もが予想していたのですが……」
「まぁ確かに、私も憎悪や嘲笑を背にゲートから飛ばされるまでは普通にそう思っていたのだがな」
 一応、今思い出せば天使裁判の判決が確定した際に、天界追放は言い渡されても行き先までは告げられていなかったかもしれないが、それも屁理屈である。
「しかし、貴女の行き先はまさかの人間界でした。正直、これだけでも魔界と天界との間で結ばれた協定に抵触する可能性はあるのですが……」
「ん……私を差し置いて憤りを覚えるのは構わんが、既にどうでもよいコトだ」
「……そんな……!」
「そんなコトより私は、どうしてお前達が魔界へ招きたがるのかを知りたいのだがな。もしや、堕天使にされたのはある意味私の所為だから、そちらで同じ苦しみを味わえとでも?」
「とんでもない!私はしがない中級第三位(パワー)に属する天使でしたが、貴女様―熾天使ルシフェルこそが新たなる天界の指導者になられるべきお方と心から信じて寝返りました。その心は今でも変わりません」
 ともあれ、足下から凍えて来ているのになかなか本題へ入らないのを焦れた私が嫌味交じりで修正すると、かつての部下だったらしい堕天使は即座に顔を上げてそれを否定するや……。
「…………」
「……ですから、今度は貴女に付き従った多くの同胞たちが待つ魔界へ降り立ち、ただ蔑まれ虐げられるだけの存在である我々堕天使を導いて頂きたいのです」
 迫る、というよりも縋る様な目で私へそう続けてきた。
「……また、それは随分と大きく出たものだな。今の私は無力な木偶の坊も同然というのに」
「それは、この人間界だからです。この世界に放逐された貴女は補給も見込めない砂漠に立たされ干からびるのを待つだけですが、魔界ならば魔王にも劣らぬチカラを取り戻せるはず」
「魔王、か……。さすがに持ち上げすぎじゃないのか?」
 まぁ、熾天使(セラフィム)の頃はどんな賛辞も当然のコトとして受け止めていた時期もあったが、今は実感が沸かなさすぎる。
「いいえ、貴女様は通常の天界人や天使とはかけ離れた特別な存在。魔界で神霊力を取り戻していただければ……」
「……はいはい、それ以上はダメよ〜?勝手にペラペラと吹き込まないでもらえるかしらん?」
 しかし、そんな私に魔界からの使者は更に畳み掛けようとしてきたものの、最後まで言い終える前に背後の方から別の声が聞こえると、白銀色に輝く四枚の翼を纏う天使が何処からともなく現れ、こちらのすぐ傍へと降り立ってきた。
「今度は正真正銘の天使、か。全く、御苦労な事だな」
「ぶっちゃけアタシも眠いんですけど、罰の執行中にこういう余計な横槍入れてくる手合いが出てくるハズだから、しっかり見張っとけってミカエル様が……ふぁぁぁ……」
 それを見て、どの道私にとっての援軍にはなるまいと腕組みしたまま皮肉を言ってやると、乱入した天使は軽薄な外見に似合わぬ鋭い眼光を堕天使へ飛ばしつつ、欠伸交じりに答えてきた。
「ふん……ミカエルの奴め、万全の体制でこの私を滅ぼす気らしいな……」
「ご安心を。この“我々”がそうはさせません。……しかし、追放した相手にまで執拗に追いかけて束縛を続けるとは、相も変わらず陰湿で傲慢不遜ですね、天使軍は」
「普通はアタシらだってここまでやんないけど、この元熾天使(セラフィム)サマは何だかんだでやんごとなき存在なんだし、しゃーないっしょ?」
 そして、それに対してすぐさま臨戦態勢へと入って身構える堕天使に、ミカエルより送り込まれた天使軍のエージェントは面倒くさそうに肩を竦めて見せたかと思うと……。
「……だから、ジャマすんなっつってんのよ……!」
「く……っ?!それはこっちの台詞です……!」
 次の瞬間、強烈な殺気を放ちつつ即座に呼び出した天使剣で斬りかかり、魔界からのエージェントの方も一歩遅れはしたものの同じく天使時代に支給されていた剣を抜き、私のすぐ目の前で激しく刃を応酬させ始めていった。
(おいおい……)
 確か、天界と魔界の間で結ばれた紳士協定によれば、人間界での戦闘行為は極力避ける取り決めになっていたはずだが……。
「まったく目障りなんだから……時代の負け犬の分際で……!」
「あの時は負け犬になろうが、まだ完全に終わってはいませんから……ッッ」
「く……っ、生意気……なのよッッ」
「あなたにだけは言われたくないです……!はぁぁぁ……ッ」
(ま、好きにやらせとくか……)
 さすがに神霊力や魔力をフル解放する程の大技は自重しているみたいだし、剣で斬り合う分は精々どちらか、もしくは刺し違えてどちらも死ぬ程度で済むだろう。
「……それで、お前達もこの私が魔界で魔王になると信じているのか?」
 いずれにせよ、自分にとっては敵同士が勝手にヤリ合っているのに過ぎないので特に止めることもなく、ただ天使軍サイドにも確認しておきたかったコトを訊ねる私。
「さぁ?アタシは分かんないけど、そういう命令だからね……っ!」
「成る程。見た目によらず天使の鏡だな、お前さんは……」
 ともあれ、これで天界の連中が私を魔界へ飛ばさなかった別の理由も分かってきた。
 ……というか、長い年月をかけて蓄積し続けた神霊力を“残りかす”となるまで抜き取られてほぼ無力化させておきながら、未だにそこまで恐れられていたのはいささか想定外だったが。
「ちょっと、褒められた気がしないんですケド……?!」
「いや、褒めてるつもりだが?天使として上手くやっていけるのは、お前の様な類だからな」
「全く、です……ッッ!ともあれ、すぐに片付けてエスコートさせていただきますのでもう少々お待ちを……!」
「させると思う……?!大体、堕天使が魔界へ誘うなんて、亡者が足を引っ張ろうとしてるだけにしか見えないけど……っ?!」
「それでも、ルシフェル様にはこの人間界に留まる理由も意味もないハズです……!ましてや、これからあなた達にじわりじわりと嬲り殺しにされる運命の上で……!」
(この世界に留まる理由も意味も無い……か)
「…………」
 確かに、魔界からの迎えは決して嬉しいものではないとしても、神霊力が回復しないのが分かっていながらここへ留まり続けるのは、ただの自殺行為でしかない。
 が……。
「……いや、悪いが今回は断らせて貰う。もう少しここで足掻いてみるさ」
 しかし、脳裏にそろそろ眠っている筈の依子の顔が浮かんでしまった後で、特に考える間もなく自分の口から出たのは拒否の言葉だった。
「な……ぐ……ッッ?!」
「へ〜、根性あんじゃん。それとも、何か理由でもあんの?」
「余計な詮索は無用だが、こんな姿になった私でもそれなりの信義はあるもんだ」
 敗北者の私は邪なる存在だろうが、それでも誰かの様な裏切り者になるのはゴメンである。
「……そうですか……ならば仕方がありません……!」
「ちょっ……?!」
 すると、そんな私にエスコート役の堕天使は露骨な落胆を見せる事もなく、背中の灰色の翼に魔力を込めて無理な突進をかけ、自らの身体ごと天使の態勢を崩させてしまうと……。
(む……?)
「……うお……ッッ?!」
 強引に均衡を崩そうとした攻めに違和感と嫌な予感を覚えた私が咄嗟に素早く身を翻しつつ後ろへ跳んだすぐ目の前を、夜闇に紛れて高速接近してきた別の黒い敵が通り過ぎていった。
(ちっ、やはり伏兵が潜んでいたか……!)
「……さすが、気配には敏感みたいだけど、ここからは力ずくってコトだね?ふふ……」
 それから、不意打ちに失敗した幼い少女の姿をした全身黒ずくめな魔族は小さく旋回して私の前方へ立ち塞がると、舌なめずりを見せつつ冷酷な笑みを浮かべてくる。
「ふん、獲物の前での舌なめずりは御法度と習わなかったか……?」
「生憎、あたしは堕天使じゃないんで。んふふふふー♪」
「……ち……っ」
 ここで純粋な魔族……しかも、漆黒の翼を持つ上位種のお出ましか。
(マズいな……)
 姿こそ“幼女”という表現が似合う質量だが、おそらく上級天使にも匹敵するチカラはあるはず。
 ……何より、最初から油断させる気すら無いと言わんばかりに、翼に纏う禍々しくもドス黒い魔力を隠そうともしていない。
「なぁんか、今にも消えそうなほど萎んじゃってるけど、でも濃密ですっごく美味しそうな魂ね。食べちゃっていいー?」
「……ふん、食えるものならな!腹を壊すぞ……!」
 ともあれ、背筋を凍らせる程の殺気を漂わせつつ飛び掛ってくる魔族に対して、私はその姿ではなく気配だけを読んで最小限の動きで回避してゆく。
「く……っ」
 そうするコトで、残像をばら撒きつつ惑わせてくる相手の術中には嵌らず、常に本体の位置は把握出来るのだが……。
「ちょっ、こっちも増援呼んでるから、もう少しだけ頑張ってて……!」
「……余計なお世話だ……!」
 それこそ、無駄な死体が増えるだけである。
 ……とはいえ、このギリギリの防戦で一度捕まってしまえば全てがお仕舞いという状況をどうやって打破するか、妙案が浮かぶどころか考える暇すら与えて貰えない状態だった。
「あはは、いいよいいよー♪どんどん抵抗しちゃってー。そのほうがあとで食べるときに美味しくなっちゃうからぁ〜」
「ち……だが、何故お前みたいな純魔族が堕天使に力を貸す……?!」
 魔界のヒエラルキーで言えば、最上位と最底辺の組み合わせだけに、流石に私もこの援軍は想定していなかったが。
「ん〜、魔界政府も一枚岩じゃないしー、それに今の体制がもう長年続きすぎてマンネリだから……カナ?」
「……つまり、魔界でも私にまた同じ様なコトをやらせる気なのか……」
 まぁ、確かに私の性には合っているかもしれないが……。
「あはは、やっぱ積み上げてきたモノをぶっ壊すのって快感だよねー?……でも……」
「…………ッッ?!」
「んふふ……スキあり……っ!」
 しかし、相手の動きに慣れてきた頃合いになってつい余計な想像力が働いてしまった直後、ちょうど真正面に対峙した魔族の真紅の瞳がギラリと光ったのを見て反射的に目を逸らせてしまい、その一瞬生じた隙の間に私の身体は小さな相手の両腕に拘束されてしまった。
「……っ、……く……しま……ッッ?!」
「あは……あたしの魔眼をとっさに防いだのはウマかったけど、結果は同じなのよねー?」
「くそ……っ」
 敢えて相手が反応し得るギリギリの攻めを続けて弛緩しかけた処での二段攻撃。
 自分で木偶の坊と称しておきながら油断を誘われ罠に掛かるとは、我ながら万死に値する不覚と言うしかないが……。
「さぁて、つ〜かまえた♪」
「ああもう、根性なし〜〜っ!ミカエル様に言いつけるんだから……!」
「うるさい……!この役立たずが……!」
 ……ただ、元より勝ち目など無かった戦いでもあった。
「さぁ、カクゴはいーかな?……っていうかね、ふと思ったんだけどわざわざ連れ帰らなくてもここであなたを取り込んでしまえば、あたしが次の魔王になれるかもって」
 そして、無能同士で見苦しい罵声を飛ばし合う私と天使を他所に、幼い容姿の純魔族は身動きの取れないチカラで押え付けつつ、無邪気な口調で全身が泡立つ殺気を込めて囁いて来た。
「な、に……っ」
「ちょっと、話が違います……!ルシフェル様は出来る限り無傷で……」
「煩いなぁ。堕天使の分際で意見しないでよー?」
 そこで、私を迎えに来た堕天使も血相を変えて止めにかかってきたものの、鋭い矢の様な視線で一瞥しただけで黙らせてしまい……。
(こいつ……!)
「魔界のきゅーせいしゅの二つ名はあたしが受け継いであげる。あ〜ん♪」
 魂喰いの悪魔は私にそう告げると、大きく口を広げてきた。
「…………ッッ」
 サイズ的に私を丸ごと齧り喰うわけではなかろうが、このまま黙っていれば首筋でも噛まれて、そこから全て吸い取られてしまうのだろう。
(ち、ここまで、か……)
 と言っても、諦めて食われてやるという意味ではなく、私にはまだ最後の切り札は残されていた。
 ……いや、切り札というよりは敵に殺される位なら自爆すると言う方が近いのだが……。
「もう、食べにくいから動かないでよー?」
「無理な要求するな……っ」
 それでも、このルシフェルが悪魔に喰われて仕舞いなどという屈辱極まりない末路は真っ平であるし、依子ならあるいは私を……。
「ええ〜い、おうじょうぎわ悪いよー!」
(我が翼よ、今一度だけ輝け……!)
「はぁぁぁぁぁぁぁぁ……ッッ!!」
「きゃう……ッ?!」
 ともあれ、焦れた魔族が肩口を力任せに押さえ込んできたタイミングで、私は墜ちた夜以来となる熾天使(セラフィム)の翼を広げ、正真正銘に最後の神霊力を解放して内から敵を弾き飛ばした。
「な、なんなの……ッッ?!」
「それほど食いたくば、我がチカラたっぷり喰らうがいい……!」
「……ふわぁ……ッッ?!」
「…………っ」
 そして、一時的に復活した飛行能力で吹き飛んだ相手を追撃しつつ、残ったチカラを惜しみなく翳した手の先に集め、至近距離から魔族の身体の中心へ解き放つと、白銀に光る閃光に貫かれた敵は辛うじて形は残しつつもそのまま墜落していった。
「はぁ、はぁ……っ」
 ……全盛期の私なら、跡形も残らずに消し飛ばしてやったろうが、まぁいい。
「そんな、まだあれ程のチカラが……」
「隙ありぃ……ッッ」
「ぐ……っ?!」
 その後、圧していたもう一人の堕天使の方も私の反撃に驚いた隙に形勢逆転されると、ミカエルの部下の天使剣で腹部を浅く斬られた上に武器も弾き飛ばされ、戦闘不能へ追い込まれた模様だった。
「ふ〜〜っ、一応、殺しちゃったら色々めんどいから、まぁこれくらいでね?」
「うむ」
 ついでに、私が退けた魔族を回収する者も必要だし、異存はない。
「あくまで……我らを拒まれるおつもりですか……ルシフェル……様……?」
「すまんな、墜落した魔族を回収して今宵は大人しく退け。……もしもいつか魔界へ落とされる時がくれば改めて話は聞いてやるが、今はまだ駄目だ」
 そうして、戦闘の続行は諦めつつ呆然とこちらを見据えるかつての同胞(はらから)に、せめてもの情けを込めた言葉で撤退を促す私。
 正直、心が痛まない訳でもないが、もう賽は投げられた後なのだから。
「うう……っ、しかし、これだけは忘れないで下さい……!貴女は我らが堕天使の救世主に……」
「ほらほら、負けたんだからさっさと行った行った〜!」
「…………」
(救世主、か……)
 ……そんな者がいるのならば、まずはこの私が縋りたいのだがな。

                    *

「さて、とりあえず撃退お疲れ〜。でもどうすんの、これから?」
「……戻って寝る」
 ともあれ、招かれざる来客の撤退を見送った後で、ミカエルの部下から訳知り顔で問われ、私は短くそれだけ告げて屋根の片隅へと向かい始める。
 ……まずは、この姿のままでいられているうちに戻らなければ。
「寝るって……」
「……皆まで言わなくてもいい。それじゃあな」
 そして、私を見送りつつぽつりと呟いてくる天使軍のエージェントへ短く手を上げると、客室のテラスへと飛び降りていった。
「…………」
 無論、寝床へ戻って眠ったところで神霊力は回復などしないはずだが……。
「…………」
「…………」
(ち……)
 まったく、つくづく無様なものだ。
 ……それでも、次に目が覚めた時は何事も無い朝を迎えていないものかと、この私が有りもしない願望に囚われるとは。

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